伏す犬の尾強く巻ける牡丹かな

牡丹(ぼたん)の花が満開で見ごろです。

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ボタン科の落葉低木。高さ一~二メートル。葉は大きく、羽状複葉で、互生する。五月ごろ、白・紅・紫・黄色などの花が咲く。花びらは五~八枚あるが、重弁や二段咲きなどさまざまな園芸品種があり、寒牡丹もある。根皮を漢方で女性の浄血薬などに用いる。中国の原産で、古くから栽培。花の王とよばれ、二十日草(はつかぐさ)・深見草(ふかみぐさ)・名取草(なとりぐさ)などの異称もある。ぼうたん。  『大辞泉

伏す犬の尾強く巻ける牡丹かな

松本たかしの昭和九年(1934年)の句です。

田坂具隆監督の映画『月よりの使者』

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2018年10月28日の「活弁シアター」は、活動弁士澤登翠さんを迎えて1934(昭和9)年の無声映画『月よりの使者』が映像文化ライブラリーで上映された。上映前に学芸員の解説と澤登翠さんと演奏者の紹介などがあった。

 「活弁シアター」のパンフレットより一部引用。

協力/国立映画アーカイブ

気高く美しい看護師と、病魔に立ち向かう青年の究極のメロドラマ。
弁士の第一人者、澤登翠と楽団カラード・モノトーンによる豪華舞台に乞うご期待!

月よりの使者
1934(昭和9)年 入江たか子プロダクション 147分 白黒 無声 35ミリ

監督/田坂具隆 出演/入江たか子、高田稔、水原玲子、菅井一郎
広島県出身の田坂具隆監督がメガホンをとり、当時人気絶頂の入江たか子と高田稔が共演した大ヒット作。信州の高原にある療養所を舞台に、入江たか子扮する美貌の看護師・野々口道子をめぐる恋模様を描くメロドラマ。1949年に花柳小菊の主演で、1954年には山本富士子の主演でリメークされている。(国立映画アーカイブ所蔵作品)

演奏はカラード・モノトーン・ミニユニット(作・編曲、ギター:湯浅ジョウイチ、フルート・鈴木真紀子)の二人が担当した。

久米正雄の小説『月よりの使者』を映画化した作品で、監督は田坂具隆(ともたか)。

信州の高原にある療養所を舞台にしたメロドラマである。ラストは波が打ち寄せる海岸の情景で終る。脇役に浦辺粂子

後藤明生の『この人を見よ』から2

西洋シャクナゲの花が咲いています。薬用で、毒性があるので注意とのこと。

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後藤明生の小説『この人を見よ』は、後半、芥川龍之介宇野浩二の関係や中野重治の年譜をたどりながら話をすすめて中途で終っている。未完の長篇小説です。

巻末に、「付録 イエス=ジャーナリスト論、その他」という後藤明生の文学論が掲載されています。一部引用すると、

 

僕はその「千円札文学論」、つまり「読む」と「書く」の連続をナントカの一つおぼえ式に繰り返し論じているわけですが、もう一つ言いたいのは、ある作家、ある作家のテキストというものは、決して単独では存在していないということです。つまり必ず他の作家、他の作品と連続した形で存在している、他の作品との関係において存在している、ということです。  482ページ

 

 

この人を見よ

この人を見よ

 

 

後藤明生の『この人を見よ』から

ヤエザクラ(八重桜)が満開です。うっすらと紅色の花びらが青空に映えている。

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後藤明生の小説『この人を見よ』を読んでいます。

海燕」一九九〇年一月号から一九九三年四月号に連載された未完の長篇小説「この人を見よ」を単行本化した本です。

本文タイトルの裏に、

――単身赴任者はこう語った

という言葉が記されている。

冒頭、大阪に単身赴任している主人公「私」が大阪から新幹線で東京へ戻って来る場面から小説がはじまる。

私は新宿でカルチャーセンターの文学教室へ通っている。

谷崎潤一郎「転居年譜」なるものを、大正十二年から昭和二十一年までの年譜を作っているのだが、このあたりから小説はにわかに面白くなる。

文学談義が脱線につぐ脱線で滑稽なのだった。笑った。

後半、太宰治志賀直哉との文学的な確執をめぐる登場人物の対話が興味深いものだった。芥川龍之介についての言及もあり、面白い。

 

この人を見よ

この人を見よ

 

 

多川精一著「戦争のグラフィズム」を読む2

 ミツバツツジが咲いている。淡い紫の花が横向きで雄しべが五本、先が上向きになっている。

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ツツジ科の落葉低木。関東・中部地方の山地に自生。葉は菱形に近い卵形で、枝先に三枚ずつつく。四、五月ごろ、葉の出る前に紫色の漏斗状の花を横向きに開く。庭木にする。  『大辞泉

 多川精一著「戦争のグラフィズム」を読む。

 「終章 一九四五年秋」の《悲劇、東方社『FRONT』の歴史》からの引用続き。

 今、振り返ってみて、東方社という組織の本質は技術者集団だったのではないかと思う。原弘や木村伊兵衛はもちろん、この組織をつくった岡田桑三も、岡田のやめた後の混乱期を切り盛りして戦後まで中心となって働いた中島健蔵も、ものを創ることの好きな、いわば第一級の職人であった。彼らはもともと文化としての写真や映画、そして出版物をつくることに打ちこんできた人たちだったから、社会が戦争一色に塗りつぶされていく中で、銃をとることを強制されるより、たとえ軍の組織であっても、そうした仕事ができる立場を選んだのは、あの時代としては無理のないことであった。

 東方社が技術者集団であったことは、原と木村の二人が創立のときから第二次文化社の消滅にいたるまで、変わることなく組織の要(かなめ)に位置していたことでもわかる。またこの時期に二人に師事した若手の写真家やデザイナーも、ほとんどが最後までやめることなく、ここで身につけた技術で、戦後、それぞれの分野で仕事を続け活躍した。このことは組織の指導者であった二人が、同時になみなみならぬ技術者であったことを証明するであろう。  238~239ページ

 

 

戦争のグラフィズム―『FRONT』を創った人々 (平凡社ライブラリー)

戦争のグラフィズム―『FRONT』を創った人々 (平凡社ライブラリー)

 
戦争のグラフィズム―回想の「FRONT」

戦争のグラフィズム―回想の「FRONT」

 
焼跡のグラフィズム―『FRONT』から『週刊サンニュース』へ (平凡社新書)

焼跡のグラフィズム―『FRONT』から『週刊サンニュース』へ (平凡社新書)

 

 

多川精一著「戦争のグラフィズム」を読む

ホンキリシマ(本霧島)の花が咲き始めている。大きさは三センチほどの径で濃く明るい赤が鮮やかだ。葉は丸みのある楕円形で花びらよりは小さい。

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多川精一著「戦争のグラフィズム」を読む。

副題が、回想の「FRONT」。

 

目次


序章 一九四一年秋
1 ふたつの大戦の狭間で
2 それは対ソ宣伝計画から始まった
3 日米開戦前夜、写真取材始まる
4 スタートした戦時国家宣伝
5 連合国に届いていた『FRONT』
6 内外の危機に揺れる東方社
7 軽量宣伝物「戦線」と、つくられた写真
8 戦局悪化のなかの外地取材
9 空襲で次第に機能を失う東方社
10 東方社最後の日々
終章 一九四五年秋
あとがき

 

 「終章 一九四五年秋」の《悲劇、東方社『FRONT』の歴史》より引用。

宣伝というものは所詮、平和であってこそ、その効果を発揮できるのである。対外文化宣伝を目指してスタートした『FRONT』は、最初の号が計画されたとき、世界中は戦火の巷になっていた。そして号を重ねるとともに、その配布は困難になり、占領地の民心は宣伝などで左右される状況ではなくなっていった。だから、ほとんどその本来の力を発揮することなく、最後はBー29による爆撃で、敗戦を待たずに留めを刺されたのであった。 237ページ

 今から六十年前の昭和初期の時代から、新しい芸術運動としての写真やグラフィック表現を日本に導入しようとしていた岡田桑三木村伊兵衛、原弘らは、平和な時代であればもっと早く、先駆者としての輝かしい足跡が残せるはずであった。しかし彼らの仕事が実を結ぼうとする時期が日本の十五年戦争と重なってしまい、その実現には軍部と結んでの宣伝という、不本意な形を取らざえるをえなかった。そしてまた、その出発が開戦と同時だったのも、彼らにとってさらに不幸なことであった。  238ページ

 

 

戦争のグラフィズム―『FRONT』を創った人々 (平凡社ライブラリー)

戦争のグラフィズム―『FRONT』を創った人々 (平凡社ライブラリー)

 

 

 

戦争のグラフィズム―回想の「FRONT」

戦争のグラフィズム―回想の「FRONT」

 

 

『昭和時代』から3

最高気温17℃。快晴で乾燥した風が吹く。爽やかだ。アセビ(馬酔木)の花が、房状に垂れ下がって咲いている。

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ツツジ科の常緑低木。乾燥した山地に自生。早春、多数の白い壺(つぼ)形の花が総状につく。有毒。 『大辞泉

 中島健蔵著『昭和時代』のシンガポールでの体験談から一部引用すると、

赤道直下の生活

戦闘はすでに終っていた。熱帯の風物は戦争と無関係に美しい。フランボアイヤン(火焔木)の赤い花、ゴムの木の林・・・・・・。

初めに与えられた宿舎は、植物園の裏に接したナッシム・ロードにある邸宅だった。砲弾を受けて雨洩りが多く、大きな家ではあったが、惨澹たる状態であった。そこに小説家の井伏鱒二(いぶせますじ)、詩人の神保光太郎(じんぼうこうたろう)の二人と一緒にしばらく住むことになったのである。井伏鱒二は、わたくしたちとは別に、第一次の徴用でずっと戦闘に従ってシンガポールまで南下してきたのだった。神保光太郎はわたくしと同じ第二次徴用で、戦闘が一応終ってから南シナ海を輸送船で揺られて来たわけだ。  157ページ

 

 

昭和時代 (1957年) (岩波新書)

昭和時代 (1957年) (岩波新書)