秋風が吹く

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 秋風が吹く。夏日で最高気温は26℃。晴れて日差しが強い。白いムクゲの花が咲いている。

アオイ科の落葉低木。高さ約三メートル。葉はほぼ卵形で、縁に粗いぎざぎざがある。夏から秋にかけて、紅紫色の五弁花が朝開き、夕方にしぼみ、次々と咲き続ける。中国・インドの原産。庭木などにし、花が白色や八重咲きなどの品種もある。はちす。きはちす。ゆうかげぐさ。あさがお。もくげ。  『大辞泉

  
 「波」10月号にて、古井由吉『われもまた天に』についての川上弘美の「旅心」という書評、「図書」10月号にて、川上弘美の「でこぼこに」を読んだ。
 

たいがいの子どもは、でこぼこにしか成長できず、でこぼこにしか生きてゆけない。子どものためのお話が、孤独と死の影と世の中の中心ではない者たちを描くのは、だから、きっと当然なのだ。わたしはそれらの物語になぐさめられた。それらの物語を友と感じていた。そして、大人になった今も、同様である。(「でこぼこに」より)

 

対談3

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 ドングリが鈴なりに実っている。マテバシイの実で、長楕円形の形で茶色だ。

ブナ科の常緑高木。九州以南の海岸近くに生え、高さ約一〇メートル。葉は長倒卵形で厚く、裏面は褐色。六月ごろ、雄花穂と雌花穂とを上向きにつける。実はどんぐりで、あく抜きをせずに食べられる。防風林・都市緑化樹にも用いられる。さつまじい。まてばがし。まてがし。  『大辞泉

 特集・稲垣足穂全集

 対談 「稲垣足穂に会ったころ」矢川澄子荒俣宏

 また、前回の「対談」のつづきになります。

矢川 (中略)三島由紀夫にせよ、澁澤龍彦にせよ。その意味では健全な小市民として、三十代に親のために家を建てちゃったりして、足穂ほどの放蕩三昧には浸れなかった。そういう意味で、オリコウさんじゃないんですよ、足穂は。どっちがモダンでハイカラか、いまとなってはわからない面もありますけど。

荒俣 そうですね。足穂さんなんかの話もよく読んでみると、最後のほうでかならずちょっと相手を突っ放すようなところがあって。「俺はまた違うところへ行くから、あんたはまた別のところへ行きなさいね」みたいなところがありますよね。

 いわゆる君子の交わりは淡いに限るというような意味での、紳士術みたいなのがありますね。やっぱり紳士文学なんですよ。都会のソフィストケートされた文学。ダンディズムなんですね。そこがとても面白いところだと思います。

 その足穂作品がまた若い人たちに読まれるということで、デジタル世代の目に足穂さんがどう映るのか、注目しなければなりませんね。

 

 

対談2

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 秋の風が吹いている。心地よく乾いた風だ。山野草の実が色づいて宝石のように輝いていた。つる性の植物である。

 対談 「稲垣足穂に会ったころ」矢川澄子荒俣宏

 前回の「対談」のつづきになります。

荒俣 一九〇〇年頃に生まれた人というのは、僕が知っている中じゃ、平井呈一という人が一九〇二年かそのぐらい。やっぱりハイカラなんですよ。和服しか着てないんだけれども、ハイカラ。それでいて日本の伝統文化が体にしみこんでいるんですね。日本のことは知識の対象じゃなく、日常の対象だから、わざわざ勉強するようなものではないんですね。だけれども、意識としては西洋に関心が向いている。

 あの世代の人達は、世界全体でいっても世紀末から生きはじめたグループだから、一つの共通したインターナショナルな意識や認識を持った人々ですね。未来派ってだいたいインターナショナルなところがありますからね。そういう意味では二十世紀の子供たちですね(笑) 

矢川 なんかバックボーンが凛としている、という感じを持ちますけど・・・・・・。

 

 

 

対談

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 もうすぐ秋分の日。暑さ寒さも彼岸まで。吹く風が秋の深まりを感じさせる。

 紅紫色のハギの花が満開だ。

マメ科の落葉低木。山野に自生し、枝はあまり垂れない。葉は三枚の楕円形の小葉からなる複葉。秋、紅紫色蝶形の花が咲く。庭木にする。  『大辞泉

 本の整理をしていたら、「ちくま」10月号が出てきた。

 特集・稲垣足穂全集

 対談 「稲垣足穂に会ったころ」矢川澄子荒俣宏

 「タルホの葉巻箱」吉田篤弘

 上記の二篇を読んだ。

矢川 稲垣さんも、たまたまわたしの父もちょうど同じ年の生まれなんです。一九〇〇年。

荒俣 ジャストなんだ。ちょうど百年。

矢川 尾崎翠が、一八九六年。一八九七年が野溝七生子さん。だいたい同時代です。漢文脈と横文字が両方入っているのよ、あの世代には。

 野溝七生子なんて、兄たちの漢文の素読の声をききながら育ったそうですもの。うちの父親も、ハレー彗星にふたたびめぐり逢えるか、こだわったりして。

  

 

 申し遅れましたが、上記の対談は、「ちくま」2000年10月号に所収の対談からの引用であります。

唯の野に唯の森あり秋新た

 朝晩が涼しくなる。秋新た。青空を背にして花梨(かりん)の実が鈴なりだ。卵円形で黄緑色をしてる。まだ熟してはいないようだ。表面はきれいでつるつるしている。実はカチカチに硬い。

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 「唯の野に唯の森あり秋新た

 松本たかしの俳句で、昭和十三年(1938年)の句です。

 前書きは、「武蔵国分寺」とあります。

 

「待つ」ということ

 9月4日金曜日、夜のラジオ番組で「高橋源一郎飛ぶ教室」を聴きました。

 「秘密の本棚」は、鷲田清一の「『待つ』ということ」という本をめぐる高橋さんの話で、50年前の高橋さんの思い出に、人を「待つ」という体験談も語られました。鷲田清一さんの臨床哲学での待つということにも触れられていましたね。耳で聞く書評でありました。

https://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=6324_01_1619617

 

「待つ」ということ (角川選書)

「待つ」ということ (角川選書)

 

 

 

 

新刊案内から

 猛暑の日々を、夾竹桃の紅色の花が咲きつづけている。 

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キョウチクトウ科の常緑低木。株立ちとなり、葉は竹に似て、三枚が輪生。乳液に毒がある。夏、紅色の花を開く。花は先の五裂する筒形であるが、八重咲きが多く、白色・淡黄色などもある。インドの原産。  『大辞泉

  「波」9月号の新刊案内に、古井由吉著『われもまた天に』が28日発売とあった。

 《現代日本文学をはるかに照らす作家、最後の小説集。》

  「編集長から」のページに、「新潮」10月号の黒川創氏の「ウィーン近郊」(二〇〇枚)について、編集長・矢野優氏が書いている。《ひとりの死者をめぐる、残された者たちの物語だ。舞台はウィーン。》

 黒川創氏の成熟した筆致に目を瞠った。という。

 https://www.shinchosha.co.jp/shincho/tachiyomi/20200907_1.html

われもまた天に

われもまた天に

  • 作者:古井 由吉
  • 発売日: 2020/09/28
  • メディア: 単行本