小林信彦を読む、『北極光』余聞


 6月5日は、二十四節気のひとつ芒種です。
 穂のある穀物を植える頃でありますね。
 公園の池に寄ると、クロイトトンボがハスの葉にとまっていました。
 昆虫が活発に活動する季節がやって来ました。


 田中重雄監督の映画『北極光』(1941年、新興キネマ、108分、白黒)に、狂言まわし的な役割で凸凹コンビの弁慶(山口勇)と牛若(上田寛)の二人がいるのだが、小林信彦著『一少年の観た〈聖戦〉』に、つぎのような箇所がある。
 「開戦まで―― 一九四一年」に、

 

 生フィルムが少なくなったので、映画の製作本数が制限され、劇映画製作は三社になった。
 東宝、松竹はほぼそのままだが、日活、新興キネマ、大都の三社を統合して〈大映〉こと大日本映画製作株式会社ができた。菊池寛を社長に迎え、系列の推進役である永田雅一が社の実権を握った。いわゆる〈映画臨戦体制〉である。
 〈映画臨戦体制〉の政府案が出された八月、ぼくは有楽座の舞台でのロッパと渡辺篤のかけ合いに大笑いしていた。
 一方、日常生活にはさまざまな制限が加えられてきた。  29〜30ページ

 燃料にガスを店と風呂と湯わかし器にいたるまですべてつかっていたが、時局柄遠慮しなければならなくなって、

 この年だと思うが、ぼくは生れて初めて外風呂(そとぶろ)――銭湯に行かされた。生活がかなり落ちた感じで、銭湯そのものにカルチャーショックを覚え、心細くなった。
 まだ太平洋戦争に突入していないのに、これである。ぼくにとって、〈聖戦〉とは、まず、内風呂(うちぶろ)に入れないことであった。
 暗い銭湯の壁に「娘たずねて三千里」という映画のポスターが貼ってあった。新興キネマが作ったもので、ポスターによれば、上山草人(かみやまそうじん)がポパイを演じ、山口勇がブルートを演じるとんでもない映画だった。前年(昭和十五年)の製作だが、本所あたりの小映画館で、だいぶ遅れて上映されたものだろう。
 そんなことをなぜ覚えているかというと、山口勇がぼくの母親のいとこだったからである。 30ページ 

一少年の観た「聖戦」

一少年の観た「聖戦」