三ヶ日過ぎたる鯖の味噌煮かな

 
 三が日は晴天に恵まれました。最高気温は13℃から15℃ほどであったが、空気は乾いていた。
 天気がよく風もなくのどかに冬の渡り鳥のヒドリガモなどが川に群れているのだった。
 ピューピューという鳴き声はなくて、静かな日だまり。
 5日は二十四節気のひとつ小寒で、もう寒の入りです。
 

   

 「三ヶ日過ぎたる鯖の味噌煮かな」(草間時彦)


 この俳句は、三が日が過ぎて御節(おせち)料理から普段の食事に戻った気分を思い起こさせます。
 鯖(さば)の味噌煮かな、なかなか味わいのある俳句ですね。


 岩波書店のPR誌「図書」1月号を読む。
 谷川俊太郎の「電私史」や柄谷行人の「二つの妖怪」に興味を覚えた。

 「二つの妖怪」から一部引用すると、

 柳田が民俗学に向かった時期、「怪談」が流行し、また、「妖怪」のブームがあった。しかし、彼が民俗学に向かい、「山人」に関心を抱いたのは、そのためではない。また、それは先住民が山に残っているという観点からだけでもなかった。彼は農政学者、農商務省官僚として、実際に「山」にかかわったのである。
 先に述べたように、柳田の民俗学は、むしろ神道研究であった。その意味で、彼は貧しい神官であった父松岡約斎の志を継ごうとしたといえる。  52ページ

 柳田は、妖怪についての考えを、ハイネの『流刑の神々』から学んだといっている。つまり、ヨーロッパでは、キリスト教が入ってきたために追われた従来の神々が妖怪になったというのである。ちなみに、つぎのような事実がある。マルクス(一八一八―一八八三)はハイネ(一七九七―一八五六)と一八四三年から二年ほど、亡命先のパリで親しくつきあった。ハイネが『流刑の神々』(一八五三年刊)を構想したのは、この時期である。また、一八四八年にマルクスエンゲルスとともに『共産党宣言』を刊行した。その意味では、二つの異なる妖怪は同じ源泉をもつといってもよい。 55ページ