老荘の徒と散木

 風来山人といえば平賀源内。では、二子山人とは、誰か? 三浦梅園のことである。国東半島の最高峰の両子(ふたご)山から名乗ったようだ。梅園が建てた屋敷が残っていて、以前、両子寺からバスで途中下車して訪れたことがあった。天球儀を見せていただいた。住んでおられた婦人が「私の兄が三浦梅園の研究をしています。」と話されたことと、そのお兄さんが勉学のために広島に戦前住んでおられたという話が印象に残っている。
 国東半島はヒッチハイクでよく歩き回ったところ、六郷満山文化が今に生きている土地。千燈寺跡、岩戸寺、文殊仙寺を山越えして巡ったこともあった。
姫島は東の端の姫島灯台まで歩いて港から往復した。車エビの養殖池がある。もうひとつ黒曜石の産地。
 山人は散歩の「散」の字を当てて「散人」と表す場合がある。荷風散人というように。
 

 梅棹忠夫の『わたしの生きがい論』、1985年(講談社文庫)では、「散木論」が展開されている。

 役にたつ木だったら、とっくの昔にきられている。きっても、なんにもつくれないから、ヌクヌクとおおきくなった。こういうのを散木というんです。
 材木というのは、役にたつ木ということです。役にたつのが材です。人材という言葉がありますね。これは役にたつ人。「材」は木偏に「才」でしょう。「才」は才能だ。そこで、木で才能のあるのは材木。それに対して「あれは役にたたん」というのを、「散木」というんです。
 この話、わたしの気持からいいますと、ひじょうにぴったりなんです。つまり役にたたなくてもいいから、ヌクヌクと生きましょう、ということなんです。わが人生の理想というのは、「櫟(れき)社の散木になりたや」ということになる。   95頁〜96頁