多和田葉子の放浪・翻訳・文学

ネギ坊主

 先日の植木を刈った葉と枝がカラカラに乾いたので、集めて大きなゴミ用の紙袋へ入れた。あちこちでネギ坊主を目にする。近所のカラカラの乾いた土の家庭菜園のなかの一角にネギ坊主が立っていた。雨が降れば、アマガエルなども見れるかもしれない。
 ユリイカの2004年12月臨時増刊号は、「総特集 多和田葉子」。
 「言葉を愉しむ悪魔」放浪・翻訳・文学というタイトルで多和田葉子、菅啓次郎、野崎歓の三人による鼎談(ていだん)があり興味を引いた。
 関西に移住した谷崎潤一郎については、

 野崎 そもそもちゃきちゃきの江戸っ子だった人間、関西の人間なんか頭から馬鹿にしているような両親に育てられた人間が、その関西文化のまっただなかに入っていった。それを回帰というのはちょっと無理だよね。なんかぬくぬくと暖めてくれるような家がそこに待っていたわけじゃないんだから。
 多和田 そうですよ。そこなんですよ。もともと日本というものがあって、そこに帰れるんだと思うのはおかしいんです。回帰できるような日本文化という場所は自明のものとして存在してないのだという意識がなければ、谷崎はあのような作業はしなかったんじゃないかと。  124〜125頁 

 アメリカについては、

 多和田 (中略)でも、どんな田舎だって、ある国家に属している以上、外から見たら、その国家が世界でやっていることに責任があると思うんだけれど。たくさんの小さな田舎の集まり。それがすごい驚きだった。
 野崎 アメリカの小説を読むと、そういうの多いものね。外に世界がなくて、内部の地域差によってストーリーが強力にできていくというね。
 多和田 それで外部がないんです。
 野崎 多様なはずなんだけど、閉じている。一種ユートピアなんだろうな。
  でもさ、それは逆にいえば、そういうストーリーにしがみつきたいだけの不安感をつねに抱えているということだと思うよ。もう帰る場所も、出てゆく先もないわけだから。
 多和田 ああ、確かにそうかもしれない。       148頁