多田道太郎の俳句的方法とアジサイの花

アジサイ

昨夜から久しぶりに雨が降る。晴天の日が続きカラカラになっていた土がこれで潤った。アジサイの花や葉が美しい。
 多田道太郎の文章の方法について、『遊びと日本人』(角川文庫)の解説で、スペイン語から名づけたと見られるペンネームの、精神科医なだ いなだ氏は、

 さて、ここらで、多田さんの思索の展開の方法について考えるべきではなかろうかと思う。多田さんは非常に俳句的な思索をする。ある詩人は、俳句とは二つの観念のあいだに横たわる空間を、鋭い一言で8の字型、あるいは∞(無限大)の字型にすくいあげる技術だといった。たとえば「荒海や佐渡によこたう天の川」という句は、荒海と天の川のあいだに果てしなくひろがる空間を、佐渡によこたう、という一言でひと息にすくいあげるというわけである。多田さんは、その俳句的方法を哲学的思索の中に持ちこんだのだ。
 パチンコから、「かごめかごめ」「おしくらまんじゅう」「鬼ごっこ」と語りすすみながら、現代から中世のあいだ、大人から子供のあいだによこたわるひろびろとした時空間を、多田さんは実に鮮やかな手つきで、8の字型にすくいあげる。荘子と太宰、テレビとあやとりのあいだの空間も、同じようにすくいあげる。その手つきのあざやかさは、この方法、この文章が、遊びについて考察するにもっともふさわしいことを示すものだ。
 こうして、彼の方法論と対象とがぴたりとあうことでできた「遊びと日本人」は、日本人論の新しい古典といってもよいであろう。   226頁

 と書く。また、なだ いなだ氏は「多田さんはロジェ・カイヨワの、パチンコが与えるのは低次元の空虚な眩暈(げんうん)だという否定的な評価を、苦笑まじりの感じで紹介しているが、ぼくも、さすがのカイヨワもパチンコの謎には当惑ぎみという印象を受ける。」と述べて、多田さんの意見は「やはり内部の人間ならではの考察だろう。」と結んでいる。