菅啓次郎の『コヨーテ読書』と夾竹桃の花

夾竹桃

 橋のたもとに夾竹桃の白い花が咲いていた。夾竹桃は大きく枝を伸ばして広がっている。川岸に夾竹桃が1キロメートルほども並んで植えられているだろうか。遥か彼方まで植えられている。川岸の向こうも同じように夾竹桃が並んでいた。
 菅啓次郎の『コヨーテ読書』、2003年刊(青土社)を読む。冒頭の「コヨーテ、コヨーテ! はじめに」で、

 ぼくがいるのはある種の曖昧な岸辺、川の第三の岸辺、ここで渡ってゆく者、渡されてゆく物を見つめ、言葉に転写してゆくだけ。翻訳という「渡し」の仕事を日々の中心にすえ、言語的な都市/荒野の境界線上でのみ起こる文学という事件のことを主に考えながら。言葉のコヨーテ? あのみすぼらしい野良犬みたいな? 何も生み出すことなく、ただ鼻をひくひくさせて放浪をつづける動物? けれどもぼくには、もし言葉のコヨーテでありうるならば、それはすでに生き方の実験だと思われた。  

 と書く。「翻訳の岸辺で」というタイトルの文では、

 シアトルの街にまぎれこむように暮らし、離れ、またそこに戻り、また離れた。灰色の雨雲におおわれ海と湖のあいだにひろがる、したたるような緑の街だ。そこで五年。一九九〇年代の、半分を暮らした。 76頁