多田道太郎の『からだの日本文化』と映画『隠し剣 鬼の爪』

 山田洋次監督の前作『たそがれ清兵衛』に話がどこか似ている映画『隠し剣 鬼の爪』を観た時に、西洋式に侍が銃を持って歩いたり走ったりする訓練のシーンがあった。なかなか上手く歩けない侍たち。右手が前へ出た時に右足も前へ出てしまい、歩行がちぐはぐになって行進ができないというシーン。幕末の頃の日本人はナンバの歩行で歩いていた。そのナンバの歩行について、多田道太郎は『からだの日本文化』、2002年刊(潮出版社)で、

 私は子供のときから、歩き方について苦い思い出がある。終生、これから逃れられそうにはない。(中略)
 私の頭の中で、一生懸命、歩き方を組みたて、さて、堂々と歩いてみた。クラス中、一同爆笑であった。私の右足が前に出るとき、哀れな私の右手は、泡を食ったように、やはり前に出ているのであった。
 意識すればするほど、ダメであった。私は淡い絶望にとらわれた。私の足についての劣等感は、こんな小さな記憶からも来ている。
 それからというもの、他人の歩き方というものに、人並み以上の注意を払うようになり、後年『しぐさの日本文化』という本のなかで、歩き方について一節を割くことともなったのである。   181〜182頁 

 と書く。そして、「ナンバの歩き方というのは、右足を出すときに右手が前にでる歩き方のこと。『しぐさの日本文化』の中でくわしく述べたので繰り返さないが、要はこれが伝統的な日本の歩き方である。」(183頁)と続けて、

 西洋の歩兵教練が入ってきてから、この伝統がくずれてしまった。そして「自然」に歩けばだれでも、右足前左手前になると思っている。「自然」の反動でそうなると考えている。いや、考えるまでもなくそういうものだと無意識に思っている。
 だけど、歩き方というのは、文化の一部をなし、伝統の一翼を担っている。無意識のものなので、よけいに始末がわるい。「歩き方というものはかえられるものではない」(司馬遼太郎)のである。   183〜184頁

 として、そこから盛り場のブラブラ歩きの歩行法を考えて、あれもナンバの一種と説く。