へそと無意味なものの意味

 「へそは何の役にたつのだろう。−−そんな疑問にとらわれることがある。何の役にもたちはしない。しかし、役にたつ、役にたたないというところに、からだの意味があるのだろうか。」と、『からだの日本文化』で多田道太郎は「へそ」をめぐって考える。

 へその緒は、血のつながりの確証であり、生のよみがえりのきずなでさえあった。へその緒が切られ、その端末痕跡がへそとなり、たとえ小さくカタツムリ状に落ちこんでしまい、無用の長物視されようとも、ここには人類の過去があり、思い出があり、つながりがあり、いや、よもがえりさえある。  81〜82頁

 幼少の頃、お腹のへそを眺め、へそのゴマをいじくり母親にひどくしかられたことがある多田道太郎は、

 親から受けたからだの一部を、かじったり掘ったりーー要は、からだをいじってはいけないという「しつけ」であったが、中でもへそは、いじってはいけないところ。なぜ、いけないのか、子供心には納得はしかねたが。
 今にして思えば、へそは過去の命の綱、だから大事にしないといけない、ということであったらしい。「無用の用」という荘子のことばがあるが、へそはまさにそれである。
 (中略)
 一見、無意味なもののなかに、じつはいちばん大事なものが秘められている。これが、おへその思想である。  82頁

 と書く。そうして、ここから話は、国で違う「へそくり」の場所へと展開し、それがいつの間にか地球のへそ、イースター島をめぐる「へそ」の話になっていく。

 南太平洋にイースター島という孤島がある。孤島ということばはよく使われるけれど、イースター島は、孤島番付では第一位である。私はタヒチから飛んだが、三千キロも離れていた。「国籍」はチリだが、チリの首都サンチアゴからも三千キロ以上という。どの陸地からも隔絶している。「星のほうが陸地より近い」とイースター島の人は言っていた。
 この島のことを「地球のへそ」という。地球の中のむだな部分、ということであろうか。それとも、地球の中心ということであろうか。  86頁