多田道太郎の『ことわざの風景』と脱走の記

 多田道太郎は『ことわざの風景』1984年刊(講談社文庫)*1のまえがきにあたる「ことわざの知恵」で、

 ことわざはレトリックの萌芽形態である。そしてまた、ことわざはレトリックの行きつくはてでもある。たとえば、怠惰と遊びとレジャーとを論じて、けっきょく「怠け者の節句働き」ということわざに行きつけば、レトリックとしては、万事それでおしまいという趣きがある。
 ちかごろは、ことわざなど、知らぬ存ぜぬという子どもが多くなってきたーーように思う。いつの世にも老人は、そのような嘆きをくりかえしてきたのであろうか。ともかく、私たちの子どものころ、昭和初期にくらべると、ことわざを口にすることは、格段に少なくなってきた。
 早いはなし、いろはかるたというものも、お正月の景物にすぎないーーいや、景物ですら、なくなったようである。むかしは、洟(はな)たれ小僧が、とにもかくにも 「犬も歩けば棒にあたる」などといって、意味もよくはわからぬまま、絵札をとりあったものである。(関西でも、昭和にもなると「犬棒かるた」一色であった。「一寸先きは闇」という上方のことわざは、長じてのち知った)。
 ちかごろはこういうことがめったにない。とすると、やはり、ことわざを知る機会、使う機会が減ってきたと言ってよかろう。たぶんそのせいであろう。若い人のことばづかいが、あらけなく、窮屈になってきた。ことわざは月並みだが、知恵と笑いとでみがかれた月並みである。これを、ことばなり文章のはしばしに忍ばせると、よほど呼吸が楽になる。ゆとりがうまれる。
 自分なりのレトリックというのは、一朝一夕にできるものではない。先人の考えてくれた「転ばぬ先の杖」にすがり、急坂をえっちゃらおっちゃら登ってゆけば、ときに、思わぬ眺望のひらけることもある。
 しかし、私のまえにーー思うようなことわざの風景がひらけるかどうか。  11〜12頁

 と述べる。多田道太郎の『ことわざの風景』は講談社の『本』という雑誌に連載したものをまとめたもので、1980年に単行本になり、のちに文庫化された。
 いろはにほへとの「いろは四十七文字」の「さ」の文字で、多田道太郎は、「さん十六計逃げるにしかず」ということわざを取り上げている。
 「逃げるが勝ちとはいうもののーー多田幹部候補生、蚤と軍隊から脱走の記」と題して、戦争体験を語っている。

 私は脱走を決意した。
 娑婆の目からみれば、滑稽な「決意」であっただろう。日本は敗け、軍隊は解散しているのだから、脱走も決意もあったものではない。しかし、軍隊の中にいると、そうは思えなかった。戦う組織ではないにせよ、厳として組織はある。ついひと月まえなら、脱走はすなわち、銃殺である。ひと月たった今、組織はどうなっているか。情報は何もない。暗がりから外をうかがう動物のようにして、私は外の空気を嗅いでいた。
 −−そして脱走を決意した。
「三十六計逃げるにしかず」というが、三十六計に到達するまでの、三十五計はどんなものであったか、さっぱり思い出せない。いろいろ「無い知恵をしぼっ」たことであろうが、そこのところは、私の記憶からきれいに脱落している。ただ恐怖の思い出のみがのこっている。ふしぎなことである。知的操作は消えやすく、情念のみ、あざやかにのこるのであろうか。  196頁

 玄界灘の孤島から内地(九州)の病院送りになった幹部候補生の多田上等兵小倉駅から汽車にのり、京都へ逃げ帰る。豚などを運ぶ貨物列車で。途中、広島を通り過ぎる時に列車から一面の廃墟を目撃する。

 あきらめてまた寝入り、ふと格子窓の光りに目をさます。時間からすると広島のそばらしい。朝の光の中で、山上の孤村が壊滅しているのが見えた。それから数分たって、広島の街にさしかかると、一面の廃墟であった。三月前、匍匐前進の練習をしていた北練兵場のあたりは、ただ白い埃と煙とがたっていた。私は原爆ということばも事実も知らなかった。
 こうして一匹の蚤のように私は京都へ逃げ帰った。しかし誰かの唾のようなものが、私の記憶にねばりつき、思い出を自由にはさせないのだ。  197〜198頁