真面目に驚け!

睡蓮とイチョウ

 夏のあいだ訪れていた公園の池に寄り道してみた。ハスの葉は枯れ果てていた。カエルはどこにも姿は見えず、鳴き声もなかった。カエルたちはどこへ消えたのだろうか。池のそばに生えているイチョウの樹から散った黄色い葉が、水面に舞い降りている。池のまわりを歩いてみる。水面に何か動くものがいる。メダカだ。睡蓮は葉が緑色のままでつやつやしている。おや、花が咲いている、睡蓮の花だ。驚いた。この時期に睡蓮の花を見れて・・・。いつまで咲くのだろうか。そばにイチョウが散っていた。
 雑誌『旅』2004年1月号(JTB発行 最終号)を読み続ける。対談『旅學講座』で西江雅之種村季弘の旅談議が読ませる。

種村 旅というのは、ここではないどこかへ行くことですよね。ところが行き着くと、そこは「ここ」になってしまう。だからまた、別のどこかへ行かなくてはいけない。家に帰ることはあっても、家も旅のプロセスに過ぎないわけで。本当は人生そのものが旅なんだけど、現代はどうもそういう風に意識しづらい集団的な思考の圧力みたいなのがかかっている。家は家なんだとか、旅は旅なんだ、とか。
西江 それに、今では人生も旅ではなくて、ツアーになってきた。
種村 実際旅に行くにしても、どこのどういう旅館で、どういう美味いものがあってとか、非日常に行きたいくせに、日常に戻るような決まりきったことをする。本来、逆だと思うんですよ。日常の中に非日常を発見するためのモデルとして、旅は非常にいい訓練になる。一見退屈な日常でも、小さな驚きがあるはずで、予め知ることのできないことがしょっちゅう起きているはずなんですよ。だから近所を歩いていてもそういう発見ができれば、旅というのは一生ものだと思うんですけどね。  169〜170頁

 「一見退屈な日常にも、小さな驚きがあるように、予知できないことはしょっちゅう起きている。そういうことを発見できれば、旅は一生ものになる。」という種村季弘の旅談議。そうして、この対談は西江雅之の次の言葉で締めくくられていた。

西江 そういう「発見」こそ、まさに旅の醍醐味ですよね。それは、自分なりの「旅」の発見でもある。みんな、「真面目に驚け!」です。  171頁