俳句的な思索

白梅

 きのうは晴れて陽射しも強かった。気温は低く、寒さが戻った。通りがかりのネギ畑の一角に白梅が満開だった。かなり背丈もある立派な梅の木である。
 蕪村の俳句に「しら梅の枯木にもどる月夜哉」。うーむ。花と月か・・・。
 『蕪村遺稿』の蕪村の句で「野路の梅白くも赤くもあらぬ哉」とあり、この句の次に「鶯(うぐいす)の枝ふみはづすはつねかな」がある。なんとなく、この句はユーモアがある。笑いと言ってもよいのかな。鶯をよく観察している。昨秋の「ニューヨーク・バーク・コレクション展」で観た蕪村の絵画の鳥の描写力に驚かされた。若冲蕭白、蘆雪、応挙もそれぞれ素晴らしかった。
 鳥といえば、きのう夕方の川のゆったりした流れのある水面を、四羽のカモが泳いでいた。ヒドリガモで、まだ渡り鳥は、このあたりの川に漂着して散開している。飛び立つ時期は、日照時間も長くなったことだし、案外早いカモ。
 俳句といえば、多田道太郎の『遊びと日本人』(角川文庫)の解説を書いている、なだいなだ氏の見解が思い出される。

 著者の卓抜な意見や恐るべき博学ぶりを、一方的に感心してうけいれるだけでなく、つい自分でも考えはじめ、あれやこれやと自分の意見をのべたくさせる、それがこの本の特徴であろう。
 さて、ここらで、多田さんの思索の展開の方法について考えるべきではなかろうかと思う。多田さんは非常に俳句的な思索をする。ある詩人は、俳句とは二つの観念のあいだに横たわる空間を、鋭い一言で8の字型、あるいは∞(無限大)の字型にすくいあげる技術だといった。たとえば「荒海や佐渡によこたう天の川」という句は、荒海と天の川のあいだに果てしなくひろがる空間を、佐渡によこたう、という一言でひと息にすくいあげるというわけである。多田さんは、その俳句的方法を哲学的思索の中に持ちこんだのだ。  226頁  『遊びと日本人』解説・なだいなだ