宇野浩二をめぐって

ヒドリガモ

 川岸の砂地に海藻が生えている。渡り鳥のヒドリガモが、その緑色の海藻をかがみこんでついばんでいた。頭の色が茶色のほうが雄で、地味で目立たないのが雌のヒドリガモである。浅瀬の水たまりや岸辺に上陸した仲間の鳥たちも、くちばしを水に突っ込んで海藻をついばんだり、座り込んで達磨さんのようにじっとしていた。
 湯川秀樹対談集『人間の発見』*11981年(講談社文庫)で、宇野浩二をめぐって水上勉湯川秀樹の対談を読んだ。『宇野浩二伝』を書かれた直後の水上勉の話が聞ける「情」というタイトルの対談。
 『宇野浩二伝』の少し前に、水上勉に晩年の宇野浩二を描いた『枯木の周辺』がある。
 湯川さんはゴーゴリの『外套』という小説が好きで、その話をした後、

 湯川 宇野さんはそれとまたちょっと違いますけれども、「子を貸し屋」でも、「蔵の中」でも、取るに足りんような、ばかげたようなことの中に、しかし、人間の幸福というか、そういうものがあるということを書いておられます。別に開き直ったヒューマニズムとか何とかいうものではなくて、これはやっぱり情というような言葉で表現せんとうまく表現できないもんだと思いますね。
 水上 私もそう思います。先生は情とおっしゃいますが、私はどっちかというと情を「こころ」と読みたいのです。人間にはこころの中に虫が一匹棲(す)んでいて、虫の好く、好かぬ日常を生きている。それは思想だとか主義とかいうものと違って、理屈では言えないようなところのものですね。人間と人間のつきあいとはそんなものであって、本音のところは虫らしいですね。  267頁