日米交換船の話

 公園のバラ園にアンネ・フランクという名前のバラが咲いている。由来は分からないが、『アンネの日記』で知られている、あのアンネ・フランクから付けられた花の名前なのだろう。
 鶴見俊輔の『北米体験再考』(岩波新書)で日米交換船をめぐって、回想している箇所を読む。一九四二年の六月一〇日に交換船で鶴見さんらはニューヨークを離れた。「この国を出るときに、私はまだ十九歳だったが、二ヶ月半かかって捕虜交換船が日本に着いたときには、満二〇歳になっていた。」(13頁)
 帰路の途中でシンガポールへ寄港しているのだが、そのときにシンガポールに兵隊でいて、その日米交換船へ臨検で乗船した人の話を聞いたことがある。交換船は船腹に白十字のマークをつけていたという。この船舶に対しては、交戦国同士で攻撃してはならないという印の白十字。もしかしたら、臨検兵として鶴見さんらと船内ですれ違っていたかもしれない。
 帰国後から「戦争時代」が終わったという、その間のことは、極端に手短に書かれているのみで、この本ではまだ書けなかったのではないかな。

 当時は、一線地区に出ていれば召集の来ないという規定があったので、志願して海軍に入り、嘱託の身分のまま、南方に出た。ドイツの封鎖突破船、ジャカルタの海軍武官府、シンガポールの通信隊にいたあと、カリエスのために、内地に送りかえされて来て、病気がるいれき、腹膜炎とかわってゆくうちに戦争時代が終った。  『北米体験再考』14頁