折口信夫ー古代から来た未来人

葉牡丹

 一昨日から急に寒くなる。そういえば、七日は立冬であった。暦の上で冬が始まる日だそうだ。朝晩はぶるぶる、冷え込むね。この寒さで初めて暖房器具を使い始めた。ということは、今年の秋はずいぶん暖かかったんだね。葉牡丹の苗を見てみた。うーむ。しっかり育っているようだ。
 昨夜、NHK教育の「知るを楽しむ 私のこだわり人物伝ー折口信夫ー古代から来た未来人」の第一回の〈「古代人」の心を知る〉を観た。語り手は中沢新一さんで、折口信夫の考えていたことや、その方法論を語っていて興味深かった。
 折口の『古代研究』に触れて、盆踊りや花祭が、それぞれ夏至冬至に関係しているという。冬至に花祭、夏至に盆踊りが古代人にとって重要であった。夜と昼との長さがアンバランスになっている時期である。折口は花祭を見に各地の花祭地帯へ出かけている。その見方は、黙ってじっと見ているというスタイルであったらしい。メモなど取らないで。*1
 中沢新一さんによると、盆踊りは、「生きている人間と死霊が渦を描いて踊る」ことであり、花祭・雪祭は、「冬の祭の本質は精霊(たま)の力を増殖させる」ことだと言う。
 盂蘭盆会(うらぼんえ)に、門前で迎え火を焚いて精霊を迎える。そういったSpirit(精霊)を古代人は重要視していた。
 中沢新一さんの話では、折口信夫のいわゆる認識論も語られていた。
 折口の言葉によれば、「別化性能」と「類化性能」といった二つの認識類型に分類していて、分かりやすく言うと、別化とは違いを中心に考えてゆく。類化とは、似ているを中心に考えてゆくということだろう。少し心もとないが、このように理解してみた。ちょっと、今、気づいたのだが、類化性能は、古代中国の思想家「荘子」の万物斉同の認識論になんとなく似ていなくもないか。
 それは、さて置き、折口信夫という人は、「類化性能」を通じて見えない通路をいたるところに発見していた人であったと話されていた。
 古代人にとって月という天体はとりわけ重要なものであった。月と女性の関係で。
 月は「生と死」が一つになった、世界の現実を理解する対象であったと。
 古代人は類化性能を活用して森羅万象を理解していたと語られていた。

私には、この別化性能に、不足があるようである。
類似は、すばやく認めるが、差異は、かっきり胸に来ない。
  (「古代研究」追い書き)

 次回の第二回目は、〈「まれびと」の発見〉である。
 参照:「知るを楽しむhttp://www.nhk.or.jp/shiruraku/200611/tuesday.html
 
 

*1:花祭。愛知県北設楽(きたしたら)郡を中心に、年末から正月にかけて行われる祭事。祭場の中央にかまどを築いて湯釜を据え、その周囲でさまざまの舞が行われる。花神楽。  『大辞泉