折口信夫―「まれびと」の発見

 NHK教育テレビの「知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 折口信夫―古代から来た未来人」の第二回、〈「まれびと」の発見〉を観た。
 三重県の大王崎にある灯台から遥か彼方まで広がる海が見える。その灯台のそばから中沢新一が、折口の「まれびと」の発見をめぐって話す。二十代の折口が伊勢、鳥羽、熊野大社、串本、田辺、和歌山と回る旅をした時の体験が、のちに「妣(はは)が国へ・常世へ」で、

光り充つ真昼の海に突き出た大王が崎の尽端に立った時、遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのあるような気がしてならなかった。
これをはかない詩人気どりの感傷と卑下する気には、今もってなれない。
これはこれ、かつては祖々(おやおや)の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるじい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)として、現れたものではなかろうか。

 妣(はは)の国とは、母親を通じて伝えられる無意識の中にある精霊の感覚だという。
 終生、折口が影響を受けたといわれる柳田国男。折口と柳田のふたりとも、神道の神々の奥にもっと古層の神があったという点では一致していたのだが、その神をめぐって折口と柳田の間には決定的な違いがあった。
 柳田は神は共同体をまとめる存在であるとして、祖霊を神とみなしていた。ところが、折口は神は外側からやって来て共同体を揺さぶる存在だと見た。それを、「まれびと」と呼んだ。そうして、「まれびと」を探る沖縄への旅があった。石垣島のアンガマア、マユガナシ、これらの祭事に古い精霊の出現様式を読み取っている。秋田県男鹿半島のナマハゲにも・・・。
 中沢新一さんは、「まれびと」は、あの世との通路を開く存在と言う。宗教とは、あの世とこの世との通路を開く行為の表現方法だとも。
 折口は「まれびと」を、心の中に流れ込んで来る異質な世界の力だとして、芸術、文芸、宗教を統一的に理解する思想だとみなしていた。
 それは、日本人の原形的な哲学、あの世との通路を開いた状態のことであると。
 また、文芸の基本は関係のないものをつなぎあわせる能力であると言って、中沢さんが謎々話を挙げていた。それは、「目はあっても見えないものは何?」という謎々である。
 答えは、ジャガイモ。ジャガイモの芽と人の目を似たものと見る認識。うーむ。なるほど。
 ジャガイモの芽と目を似たものと見なす認識は、まさに折口の類化性能だなあ。
 古代人にとっての、文芸の発生に類化性能があったといえるかな。
 次回、第三回は「芸能史という宝物庫」。
 参照:「知るを楽しむhttp://www.nhk.or.jp/shiruraku/200611/tuesday.html