東京のカフェハウス

ドングリ

 公園のコナラの木の周辺に、木の実が散らばっている。根元の部分は降り積もっているようだ。ドングリである。

クヌギ・カシワ・コナラ・カシなどのブナ科植物の実。球形や卵型で堅く、下方を殻斗(かくと)が包む。  『大辞泉

 拾ってドングリを握ると、つるんとして帽子のような殻斗がはずれた。帽子をかぶせようとするが、なかなかすっぽりとは収まらなかった。強く摘まむとドングリが砕ける。
 森本哲郎の『世界の都市の物語8 ウィーン』(文藝春秋)を読む。ウィーンの「グリーンシュタイトル」のような役割を果たした〝カフェハウス〟が、東京の焼け跡のオアシスとして喫茶店コロンバン」にあったという。
 それは、交詢社ビルに近い銀座通りに面してあって、森本さんのいた「イブニングスター社」という出版社は交詢社ビルの五階に入っていた。
 その頃に《編集室にはマンガ家を初め、作家や、評論家などが、足繁く出入りした。》
 そこで、森本さんは無名時代の作家の柴田錬三郎に会ったりしている。
 それと、『近代文学』という同人集団が、編集室の一部を貸してもらえないか、という相談を受けて、その同人会議が、その応接室で開かれることになったそうだ。

 会議の日には、夕方から平野謙平田次三郎埴谷雄高福田恒存中村真一郎山室静本多秋五佐々木基一加藤周一、さらには新進の社会学者、日高六郎・・・・・・といった人たちが、立派なソファを置いた別室に集ってきた。私は近くの喫茶店からコーヒーを取り寄せてふるまい、一隅で彼らのドストエフスキー論や、トーマス・マン、ジャン・ジロドー、ロマン・ローランなどについての討論を神妙にきいていた。その何人かとは、「コロンバン」で話し合った。
 彼らは「若きウィーン」派ならぬ「若き東京」派といってもいいような気がする。じっさい、みんな若かった。せいぜい三十歳を過ぎたばかりだった。その議論は何と熱気にあふれていたことだろう。そう。「コロンバン」は、まぎれもなく前世紀末の「グリーンシュタイトル」、私がいま、こうして思い出にふけっているカフェハウスのような役割を、たしかに果たしていたのだ。  60〜61頁

 うーむ。この本には、ウィーンを語りながら突然、思いも寄らなかった世界へ寄り道する。それが、森本哲郎さんの、実際に見聞した現場報告といったおもむきで面白い。
 このあと、『夜の会』という会を主宰していた花田清輝の会合に出てみた経緯があって、これも興味深かった。これは、省線(現在のJR)の東中野駅近くにあった「モナミ」というカフェハウスでの話。昭和二十三年二月初めの夜、その当時の花田清輝は、

 (中略)真っ黒な長い髪をかきあげながら、中年の恰幅のいい眼の大きな男がしゃべっていた。サルトルカミュニーチェキェルケゴール・・・・・・などという名前がつぎつぎにとび出す。やたらにむずかしい外国語を使って、みんなを煙に巻いていたようだった。彼が『夜の会』というこうした会を主宰していた花田清輝である。
 私はその席で、花田清輝をはじめ、まだ東大医学部の学生だった安部公房(あべこうぼう)、受付役を引き受けていた五味康祐(ごみやすすけ)、油だらけの鳥打帽をかぶり、青い顔で、訥々(とつとつ)と発言していた作家、椎名麟三(しいなりんぞう)、兵隊服の梅崎春生(うめざきはるお)などを知った。  62頁

 「歩行と記憶」で、花田清輝の文について触れられていた。花田のコラムは面白そうですね。