内山節の「日本の自然信仰」

落葉

 街路樹のソメイヨシノも紅葉が進み、落葉が歩道脇に積もっている。
 蕪村の句に、「冬ごもり心の奥のよしの山」。
 講談社のPR誌『本』2007年12月号で、内山節の「日本の自然信仰」という文を読んだ。昨年の暮れに近づいたある日、筆者は奈良県吉野の一角にある金峯山寺(きんぷせんじ)をちょっとのぞいてみようと出かける。
 金峯山寺は、「義経千本桜」以来の山桜の名所。また修験本宗の総本山である。

 修験道とは、人間としての自分を死に追い込むことを目指している。そのために山中で苦行をつづける。そして人間としての自分が死を迎えたとき、自分は自然と一体化し、正常な人間として、それ故に自然の力を身につけた人間として生まれ変わり、その力をもって里の人々を助ける。自然が人間を助けるように人々を助けるのである。雨が降らない年には雨乞いをして雨を呼び、薬草や祈祷の力で病気を治す。自然のもっている本来の力で人々を守るのである。  16ページ

 このような自然信仰、山岳信仰が、なぜ普通の民衆のなかにひろがっていたのか。「土を耕やし、山に入り、村に暮らした人々が、なぜこの信仰に〈真理〉を感じとったのか」を筆者は考えている。
 知性ですべてのことを論じてしまう人間の精神のあり方に対して、この日本の民衆の自然信仰は面白いという。

 この信仰は自然に神をみいだすという一面と、人間の限界をみつめるという一面とが一体化している。なぜ人間に限界があるのかといえば、人間には知性があり、人間は「私」なるものをもっているからである。「私」があるから主張や目的が生まれ、煩悩まみれの人間になってしまう。知性があるから、知性の彼方に展開する大いなる生命の世界がわからなくなってしまう。そういう思いをいだきながら、人々は自然に永遠の普遍をみた。  16ページ

 内山節の『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社現代新書)を読みたくなる。*1