うーん、どうなんだろう?

ツバキ

ツバキが満開で、見頃になった。地面にツバキの花がいくつかポトと、落ちている。 花弁が散らないままで・・・。
 蕪村の句に、「あぢきなや椿落(おち)うづむにはたず(づ)み」。
 今朝の朝日新聞加藤典洋の「文芸時評」を読む。今月のタイトルは《「誰か」VS「誰でも」》。今回で担当を終わるそうだ。
 一昨年に出た梅田望夫ウェブ進化論』(ちくま新書)と昨年末出た橋本治の『小林秀雄の恵み』のふたつを論じていて、おやっ、面白い見方をしているな、と思う。
 それはさておき、この二つを論じているあいだに、次の感想が述べられる。

たまたま「文學界」が五十年ぶりという鳴り物入りの「十一人大座談会ニッポンの小説はどこへ行くのか」を掲載しているが、筆者は、うーん、どうなんだろう? と唸ってしまった。「重くてダサい」。「既成の権威」の一部たる筆者ならびにこの欄の「重さ」を含め、このあたりがこの二年間での筆者の偽らざる感想である。

 
 橋本治の『小林秀雄の恵み』をめぐって、橋本の一九八七年の『桃尻語訳枕草子』は、そのとっかかりが小林秀雄の『本居宣長』に励まされてのものだった、と。
 宣長が、「古今集」の現代語訳をやっている「古今集遠鏡」。これは、江戸の桃尻語訳だそうだ。
 《ほかに、真の文筆家つまり「書けなくなった文筆家」について語るエンリーケ・ビラ=マタスの小説『バートルビーと仲間たち』(木村榮一訳、新潮社)が素晴らしい。自分は何者でもないと信じる、心ある世の少数の人々は好きだろう。》としめくくる。
 この「文芸時評」は次回から斎藤美奈子氏が担当になるようだ。
バートルビーと仲間たち