梅園と麻田剛立のこと

 18日の朝日新聞に「なにわ科学の源流」というタイトルで、「麻田剛立」を紹介していた。
 《剛立は誰から医学を学んだのか、はっきりしない。天文学も誰が師なのか分かっていない。終始、独学の人であったのかもしれない。大阪では医師で身を立てながら、天文塾を開いた。
 剛立のもとからは優秀な学者が多く育った。懐徳堂孔明と呼ばれた山片蟠桃(ばんとう)も薫陶を受けたひとり。寛政の改暦を成功させた間重富(はざましげとみ)や高橋至時(よしとき)の2人が代表的な高弟だ。剛立や至時らがいなかったら、伊能忠敬の大日本沿海輿地(よち)全図の作製もあり得なかった。(以下略)》
 九州は大分県に瀬戸内海に面して国東半島がある。
 その国東半島の中央に両子山(ふたごやま)があり、ふもとに両子寺がある。
 石仏を見に訪れたことがあった。寺へ行くのに国見町側から山に分け入り、南下してクルマをヒッチハイクしてたどり着いた。
 両子寺を見終わって、バスで海岸へ下って行く途中で下車して、三浦梅園の旧宅を訪ねるのが目的だったのだ。
 旧宅は築二百年も経っている茅葺の家で、敷地に三浦梅園の墓があったように記憶している。
 残されている梅園の書いたオランダ語の筆跡や天球儀などを見た。
 個人で江戸時代に天球儀を持っている人、三浦梅園。ちょっと驚く。
 三浦夫人が、三浦梅園のことを説明されるのを拝聴した。
 どちらから来られましたか? とたずねられた。答えると、私の兄が戦前広島に住んでいました、と話された。今でも覚えているのは、三浦梅園と麻田剛立の間に交流のあったことを話されたことかな。
 梅園も医者だし、当時の天文学の知識もあるし、二人の間に知のネットワークがあったようだ。
 その話は、三浦家で代々伝えられているエピソードのひとつなのかなとも思った。
 夫人の兄が、戦前の広島に住んでいたことがあったという話と、三浦梅園の思想を研究していて本を書いてますという話を聞いたのだった。
 田口正治という人で、のちに、出たばかりの『三浦梅園の研究』という本を図書館で探して読んだ。
 読めもしないのに、見たといったほうがいいのか。
 三浦梅園の自然哲学というか、物質の哲学的概念というか、そういったものが図像で表現されているのに興味を引かれた。とても論理的。ヴィジュアルな図像が一種の曼荼羅的にもみえる。
 「一」、「玄」いう言葉を使っているが、『荘子』にも見える言葉だ。
 梅園の言葉に、いくつか『荘子』にもみえる言葉があるなぁ、というのが最初の印象だった。