『須賀敦子全集』年譜のこと1

 この三日ほど、月が夜半に天頂あたりにやって来て照らしている。外に出て、月明かりに手をかざすと、影ができるのだった。
 今夜は満月で南西に傾きかけている頃に、外へ出て月を眺める。
 南東にオリオン座が見える。冬のダイヤモンドと呼んでいる大きな六角形に並んだ星が見えた。こいぬ座プロキオンは、やや見えにくいが・・・。
 蕪村の句に、「寒月や門なき寺の天高し」。
 さて、『芸術新潮』2008年10月号で、『須賀敦子全集』の年譜の作成者・松山巌さんの「須賀さんとの会話」を読みました。これは、須賀さんを回想する松山さんのイタリアからの手紙なのですが、つぎのような箇所があります。

じつは今回のイタリア行きも躊躇しました。美術を語るほどの素養はないし、体調にも自信がありません。なにより須賀さんなら、私のことより自分の仕事をしてよというに違いない、そう思いながらも、あなたがどう生きてきたのか、知りたくて、読者に知らせたくて、一年半夢中になって細かい年譜を作成しました。それで私の役割は終わったつもりだった。もう須賀さんについて語ることはないだろう。 (以下略)85ページ

 年譜を読んで、おやっ、と気になった年譜の箇所です。

 1981年、九月 このころ、白水社芝山博、ウンベルト・エーコ薔薇の名前』の翻訳を勧めに研究室に来る。

 1982、六月 ブルーノ・ムナーリ著、須賀敦子訳『木をかこう』を至光社より刊行。
     十一月四日、ジョルジョ・アミトラーノ、上智の研究室に来る。

 1983、一月十日、この日刊行した『伊和中辞典』(小学館刊)に「詩学」に関する専門用語校閲者として参加する。

 1984、三月、ナポリ着。ナポリ東洋大学から日本文学科講師によばれ、七月末まで教鞭を執る。

 1988、九月九日、イタリアで学会に出席。フィレンツェで藤谷宅を訪れ、藤谷の作った広島風お好み焼きに舌鼓をうつ。

 1992、七月十三日、横尾壮英『中世大学都市への旅』の短評を「毎日新聞」に発表。
 
 といったところですが、あとでもう少し触れてみます。