人生の乞食

人生の乞食

 タンポポの綿毛がふんわり白く見える。爽やかな風に乗って今にも空へ舞い上がりそうだ。
 そんな詩集を読んだ。いや、そんなことはない。というかもしれないがそんな詩もある。
 四方田犬彦の詩集『人生の乞食』2007年(書肆山田)に、「137」という詩がある。
 もうひとつ、「パンのみにて生きる」という詩も軽妙である。この中のケーキ工場の思い出というのは、『ハイスクール1968』にも書かれたアルバイトのことだろうか。
 栞(しおり)に、小池昌代「静かな先生」と高橋睦郎「眩しい登場」の文あり。
 集中最も好もしい一篇に、「眩しい登場」の文が「137」を挙げている。なるほど。
 「137はぼくの宿命だ」と冒頭の一文があり、「ぼくはきっと1月37日に死ぬだろう。」「いや 間違えた。」「13月7日に死ぬだろう。」と意表を突く言葉が印象的だ。
 「後書」に、《わたしにとっての詩作とは世代とも流派とも無関係な、もっぱら自分を救済するための手立てにすぎない。(中略)詩集の題名はルイズ・ブルックスが主演した無声映画から採った。》とある。

 それにしても詩集のタイトル「人生の乞食」は意味深長だ。『新体詩鈔』が世に出た一八八二(明治十五)年を日本現代詩元年とすれば、今年は一二五年だ。この一世紀と四半世紀の間、形式は文語定型詩から口語自由詩に変わったが、内容はひたすら欧米詩をどう盗んで日本語に移すかに、つまりは西洋乞食に終始した。そして、ついにグローバルの怪しげな名をもって呼ばれる当代に至り、西洋も東洋も日本もない、金箔付きの人生の真正乞食、つまりは真の詩人の登場を見た。豈(あに)眩しまざらんや。  「眩しい登場」より