バッタと「大正式散歩」

ショウリョウバッタ

 墓参りに仏さんの花を持って行く。快晴で陽射しが強く汗ばむほどだ。
 墓地の墓石にバッタがくっ付いていた。黄緑色のスマートな姿のバッタだ。
 バッタを摘まんで、墓石から引き剥がし通路の敷石に置いてやった。逃げたりせずに敷石に超然としているのだった。大きさは八センチほどだろうか。
 通路の敷石に置いたままだと、人に踏み潰される恐れがあるので、再びそばの墓石へ戻してやる。
 あとで調べると、このバッタはショウリョウバッタというらしい。
 ショウリョウとは、精霊という言葉で、死者の霊魂、みたまをいう。墓地の墓石で出合った昆虫が精霊バッタとは? はてな、その名前の由来はなんだろうか。

 バッタ科の昆虫。体は細長く、頭部は長三角形に突き出し、前翅(まえばね)の先がとがる。雌は体長約八センチ、雄は約四センチ。飛ぶときにキチキチという音を出す。草原にすむ。きちきちばった。こめつきばった。  『大辞泉

 新潮社のPR誌『波』2009年11月号で、堀江敏幸の書評を読む。
 津野海太郎著『したくないことはしない 植草甚一の青春』をめぐってである。

 戦後、東宝争議を機にフリーとなり、友人たちが関わっている映画雑誌に寄稿しはじめる。しかし彼には、筋書きよりもイメージの流れを重視し、描写や細部の妙、そして映画の文体で作品を評価するという傾向があって、それが周囲にまったく受け入れられなかった。もっと言えば、本当にやりたかったのは映画ではなく、海外の小説を原語で読み、その喜びを人に語ることだったのである。にもかかわらず、小説について、本について語りうる場は、容易に与えられなかった。それが、いらだちや鬱屈につながっていった。
 一方で、植草甚一は真摯(しんし)に「勉強」をつづけていた。ただし、その内実は、かつての学校的秀才を生むためのものから大きく変化していた。好きなことを好きなだけ、妥協なしに、かつ楽しくやっていくこと。定められた路線に乗ってではなく、寄り道しながら、ゆっくりと、本人の言葉を借りれば「大正式散歩」のやり方で進んでいくこと。さらに、そこで得た知と喜びを他者と共有すること。それが、彼にとっての「勉強」になっていたのである。
 一九六〇年代までの植草甚一には、こうした「勉強」に支えられたライフスタイルを理解してくれる味方がいなかった。偏りと寄り道の多い彼の文体が「発見」され、共感を得るには、消費を厭わない一九七〇年代の若者たちの出現を待たねばならなかったのだ。植草甚一は、いきなり植草甚一になったのではない。挫折と無理解に苦しんだ前史があって、ようやく「第二の青春」が訪れたのである。晩年の爆発は、彼自身の成熟と時代の変化がかみ合って生まれた、幸福な現象なのだった。*1  21ページ

 
 先日の「ETV50もう一度見たい教育テレビ」でミヒャエル・エンデ山口昌男の対談がありましたが、挫折を知らない人間は、強靭(きょうじん)ではない、弱さを必死になって隠すから、挫折を知らないように見えるだけなのではないか、どんどん挫折した方がいいのではないかということを思い出しました。
 挫折というものを大事にすること。

したくないことはしない

したくないことはしない

*1:文中の真摯(しんし)の(しんし)は、引用者。