映画『甘い汗』と山茶花究

甘い汗

 29日、「京マチ子特集」の一本、豊田四郎監督の映画『甘い汗』(1964年、東京映画、119分、白黒)を観に駆けつける。昼の部で超満員。
 プログラムに、

シナリオ作家・水木洋子が書いたテレビドラマの映画化。水商売の世界を転々としながら、家族を支えてきた梅子、彼女はかつての恋人・辰岡と再会するが、手痛い裏切りにあう。そんな梅子の生きざまを、京マチ子が存在感たっぷりに演じる。

 東京オリンピックの年に公開された映画。
 水商売で家族を支えてきた母親・梅子(京マチ子)と十七歳の高校生の娘・竹子(桑野みゆき)の親子の葛藤が見どころのひとつ。
 ラストの竹子が母親を捨て出て行くシーンまで、京マチ子が娘の目にはだらしなく映る母親の楽天的なヴァイタリティを熱演する。
 脇役に、小沢昭一名古屋章。梅子の同僚に池内淳子、梅子の母親を沢村貞子
 辰岡(佐田啓二)の情婦に市原悦子山茶花究靴屋の店主・金子で、旧知の辰岡に店を騙まし取られる役を。佐田啓二が再会した梅子と金子を騙す悪党を演じているのは珍しい役どころだった。
 
 ところで、山茶花究がこの映画では靴屋の金子を演じていたが、同じ豊田四郎監督の『夫婦善哉』と『駅前旅館』にも山茶花究が出ていた。
 『駅前旅館』には森繁久弥森繁久彌)、フランキー堺伴淳三郎に混じって客引きの「カッパ」の親分の役で。
 久松静児監督の『路傍の石』では嫌味な番頭役で出ていたのだが、妙に気になる俳優である。
 小林信彦の『日本の喜劇人』(新潮文庫)を読むと、「第一章 古川緑波」に、山茶花究について参考になる箇所があった。

 丸の内に進出したロッパ一座は、翌十一年十月に作者として菊田一夫を迎え、十二年には、女房役となる渡辺篤を、若手として森繁久弥山茶花究(さざんかきゅう)を入れている。菊田、渡辺というのは最強力の布陣であった。 19ページ

「第三章 森繁久弥の影」に、

 エノケンが戦前の喜劇人にあたえたと同じくらいの影響力を、戦後にもったのが、森繁久弥である。
 森繁は大阪の北野中学の出身で、父君は成島柳北の甥(おい)である。喜劇人には珍しい良家の出で、好んで芸能界入りした。
 正式に俳優になったのは昭和十一年、それから昭和二十四年にムーランで脚光を浴びるまでは、不遇というほかはない。
 山茶花究(さざんかきゅう)とともに緑波(ロッパ)一座の青年部で異彩を放っていたといわれる森繁が、新京放送局のアナウンサーになって渡満(昭和十四年)したのは、才走り過ぎていたために風当たりが強かったのだ、と『喜劇人回り舞台』にあり、『森繁自伝』(昭和三十七年・中央公論社)もそれを裏書きしている。  60ページ

戦前、第二次〈あきれたぼういず〉(益田喜頓坊屋三郎芝利英山茶花究)の一人として活躍していた山茶花究は、戦後、再建した〈ぼういず〉がうまくゆかず(芝利英は戦死していた)、解散後、ラジオでジャズ番組の司会をしていた。
 その後、長らくクサっていた山茶花究は、森繁によって『夫婦善哉』のフチナシメガネをかけた冷酷な婿養子役をあたえられ、この一作でみごとに復活した。昭和四十六年三月四日に心不全で死ぬまで、渋く、手堅い脇役として評価されていた。森繁の人情味ある一面を示すエピソードであろう。  74ページ

 同時代人というのは、たとえば益田喜頓のように、森繁を無視する在り方もあり得る。(それに、キャリアからいえば、益田喜頓のほうが先輩でもある)。堺駿二のようにカンケイない、という在り方もある。
 だが、強固な個人主義者である山茶花究(森繁は〈限界以上に親しくなろうとせぬ男〉と書いている)を除いて、森繁によってペースを乱された人はずいぶんあったろう。  83ページ