松本清張展2

 「特別展 松本清張 〜清張文学との新たな邂逅〜」
 《この作家を培った前半生と、膨大な作品を生み出した後半生を軸に代表作の言行や取材メモ、直筆原稿を展示し、松本清張の魅力やその精神性に迫ります。》
 展示構成は、
 1、思索と創作の城
 2、小倉時代の松本清張
 3、清張文学の世界

 「点と線」の原稿。清張愛用の眼鏡、万年筆、校正用の赤鉛筆。清張が撮影した原爆ドーム。映画化された作品の映画ポスター。取材ノートとその中に描かれたイラスト。(これは綿密な取材ノートで、イランへの取材ノートだったと思うが壺の絵が秀逸。)
 雑誌『新青年』など愛蔵の本・雑誌の展示が前半生を培った読書体験をうかがわせる。

 清張直筆の風景画(矢戸)。



 「松本清張展」の展示パネルの一つに、「衛生兵体験と朝鮮体験」という解説があり、
 

昭和18年10月、教育招集で33歳にして初めて経験する軍隊生活に、清張は〈奇妙な新鮮さ〉を覚えた。内務班での過酷な私的制裁や、戦闘の主力でない衛生兵(「ヨーチン」)に対する差別などは確かにあった。しかし、新兵に社会的な地位や貧富、年齢の差はなく、皆平等である。新聞社では差別的待遇のため「歯車のネジにすら値」しない存在と感じていた清張に、頑張りが成績に出、同時に班長や古兵への要領が物をいう、個人的顕示が可能な兵隊生活は〈奇妙な生き甲斐〉を持たせた。
 翌年6月、臨時招集されて朝鮮に渡り、京城(けいじょう)(現在のソウル)市外の龍山(りゅうざん)に駐屯する。中隊付きの衛生兵として医務室に勤務し、診断室係で軍医の傍らで診断簿などを書いた。衛生兵の清張は、市内での薬の購入を理由に公用で単独外出ができた。
 昭和20(1945)年5月、新兵団の師団軍医部付の衛生兵として南朝鮮全羅北道井邑(せいゆう)に移った。食料不足の前線に配るため、植物図鑑から食用野草を謄写する仕事などが与えられた。しかし、その絵は見向きもされなかった。清張は、「役に立たないことが、さも有用げな仕事として通用する」様子を〈官僚的〉と批判し、煩瑣な書類作業に〈官僚主義〉を見る。年長の〈社会人〉であり〈衛生兵〉であった清張は、軍隊という組織を普通の兵隊とは違う冷静な目で観察できたのである。
 また軍隊時代は、松本清張にとって初めて家族から離れる体験でもあった。植民地とはいえ異国である朝鮮の風景は、清張の目に新鮮なものとしてうつった。京城では、朝鮮人居住区域を徘徊し、鍾路(しょうろ)あたりの裏町にエキゾチックな気分を味わった。空に亭々と伸びるポプラの木立と、巣をかける鵲(かささぎ)は殊に印象深かったようで、朝鮮を舞台にした小説には必ずといっていいほど登場する。

 昭和19年6月の臨時招集ですが、その招集の事務を福岡の西部軍司令部でやったことがある人の話を耳にしたことがあって、もしかしたら清張さんへの招集令状の発送作業にあたっていたのではないかなと思いながらこのパネルを読んでいました。
 余談ですが、19年、前線からの報告は飛行機で人が西部軍司令部のある福岡に飛んで来ていたと聞きました。当時すでに暗号がアメリカに解読されていたために。