ピンチョンの『ヴァインランド』

 トマス・ピンチョンの『ヴァインランド』の解説を訳者の佐藤良明氏が書いている。
 《毎年十月になると、世界のジャーナリストの間でノーベル賞候補の推測が飛び交うのだが、トマス・ピンチョンはかねてからそのリストの常連である。しばらく前からボブ・ディランの名もときどき聞かれる。》
 《この種の六〇年代的サプライズを、今時なお味わわせてくれる稀有な存在がピンチョンである。》
 《「六〇年代小説」であると同時に『ヴァインドランド』は「一九八四年小説」でもある。》
 《そもそもVinelandの名は、アイスランドのサーガが語るVinland(葡萄繁る地)に由来する。今から一〇〇〇年ほど前にレイフ・エリクソン率いるヴァイキングの一団が上陸した「善なるヴァインランド」。当初あれだけの可能性を秘めていたこの大陸に、どうしてこんなシステムが蔓延(はびこ)ってしまったのかという思いは、ピンチョン文学を通して聞こえるブルースなのだ。》 
 《後にオーウェルの『一九八四年』(生誕百年記念版)に序文を寄せたピンチョンは、あの近未来悪夢小説が、自由主義国家に巣くう状況に警鐘を鳴らしていると解説した。》

 この小説の冒頭、ゾイド・ホィーラという男が目覚めるシーンから始まる。
 その朝、ブルージェイという鳥が犬のデズモンドの餌を掠め取ろうと皿に舞い降り、餌をくわえて行ってしまう場面があるのだが、このブルージェイという鳥が物語のラストに再び登場して来る。
 この犬のデズモンドが物語の終わりに、鳥のブルージェイの羽毛を顔面につけて、ゾイド・ホィーラの娘プレーリィを舐め回わし目覚めさせる場面だ。
 物語は、ゾイドという男の目覚めるシーンで始まり、その娘が犬のデズモンドに自分の顔を舐め回されて目を覚ますラストシーンで終わる。
 その部分を引用してみよう。
 冒頭に、
  

一九八四年の夏の朝、いつにも増して遅い時間に、ゾイド・ホィーラはとっぷらとっぷら、眠りのなかから浮かびあがった。窓を這う蔦を通して光が差し込み、屋根の上ではブルージェイの軍団が撥ねている。*1(中略)最後に届いた精神障害者用小切手には手紙が同封されていて、このさき公的にクレイジーとされる行動が認められなければ受領資格は失効しますとあった。その期限まで一週間たらず。ウウウウウと唸りながらゾイドは起きた。坂を下ったところでハンマーとのこぎりが忙しそうに鳴っている。だれかのトラックのラジオからはカントリー・ミュージックゾイドはモクを切らしていた。
 (中略)
 玄関先で、犬のデズモンドが皿のまわりをうろうろしていた。この皿はいつもカラッポ。餌をのせた瞬間、レッドウッドの森からブルージェイの奴らがけたたましく舞い降りてきて一つ残らずくわえていってしまうのだ。  9〜10ページ


 終わりに、

日の出どき、窪地に降りた霧がもやもやと地表を這い、野原で鹿と牛とが草を食(は)み、濡れた草に張った蜘蛛の巣に太陽の光がきらめき、稜線の上に一羽の鷹が舞い上がり、新しい日曜の朝が明けていくころ、プレーリィは自分の顔のいたるところを舐め回す温かく執拗な舌の攻撃に目を覚ました。デズモンドだった。祖母のクローイとうりふたつのムク犬の毛は長旅でもじゃもじゃになり、顔面はブルージェイの羽毛でいっぱい、眼でスマイルし尻尾をふってホームへの帰還を喜んでいる。
480ページ

ヴァインランド (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第2集)

ヴァインランド (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第2集)

*1:脚注に、ブルー・ジェイは、カケスの仲間の、青い大型の渡り鳥。トロントを本拠とする大リーグ・チームが球団名に選ぶほど元気で気性が激しい。