『聖林からヒロシマへ』

 新刊の四方田犬彦著「『七人の侍』と現代」(岩波新書)で、キャメラマンの三村明についてふれられている箇所を興味深く読んだ。
 この新書は「七人の侍」のもたらしたその影響を海外をふくめて丹念にたどっている。
 各国語に翻訳されるといいのにな、と思う。(殺陣についての考察に注目する)
 それはさて置き、その三村明についての本で、工藤美代子著『聖林からヒロシマへ』(晶文社)1985年刊が抜群に面白かった。
 副題は「映画カメラマン・ハリー三村の人生」*1 
 アメリカの戦略爆撃調査団の撮影班が日本で長崎と広島を撮影した実写フィルムを、1983年十月から十一月かけてアメリカでテレビドラマ「ザ・デイ・アフター」をめぐって沸き立っていた頃に、カナダのニュース番組で放映された原爆を受けた広島と長崎の実写フィルムを、カナダ在住の工藤美代子が見た。
 その撮影のチーフ・キャメラマンがハリー・ミムラ(三村明)であることに感銘を受け、以前から日系一世の故老たちへの聞き書きを続けて日系移民史に関心を抱いていたこともあり、さっそく来日して三村明を訪れ話を聞き、後に三村明から渡された原稿用紙二百字で二千枚の自叙伝(手記)を渡されて、それを読み、四回のインタビューと資料とで書き上げた本である。
 

 本書のカバーそでに、《昭和21年早春。いちめん焼野原の広島で、ハリーと呼ばれる一人の日本人が、カメラをまわしていた。アメリ戦略爆撃調査団の一員、三村明。このとき撮影されたフィルムがのちに「幻の原爆フィルム」として、世界中に衝撃をあたえることになる。
  大正8年、単身渡米。ハリウッドでカメラマンとして活躍。帰国後、「人情紙風船」「姿三四郎」など数かずの名作を撮影。そして、原爆の惨禍を記録にのこした男の軌跡。
 
「7 日本映画が若かったとき」(122〜157ページ)で、三村明が山中貞雄の「人情紙風船」、黒澤明の「姿三四郎」で組んだ頃の撮影現場での出来事が面白く読ませる。
 山中貞雄の「人情紙風船」、《この映画の撮影は昭和十二年六月二六日から七月二十五日までの一ヶ月間で行われた。
 《撮影が最も好調の波に乗っていた七月七日、七夕の夜、盧溝橋事件勃発のニュースが伝わった。天津に近い盧溝橋(マルコ・ポール橋)で、日中両軍が衝突し、たちまち戦火は天津、北京へと広がった。これが、以後八年に渡る悪夢の日中戦争の幕開けであるとは、そして、それが山中貞雄やハリー・三村に、個人的にどのような影響を与えるか、もちろん神ならぬ身の二人は知るよしもなく、撮影に熱中していた。
 ハリーが招集令状を受取ったのは、映画がクランク・アップして間もなくだった。
 ハリーは四国の善通寺師団に入隊せよとの命令で、四国に行くが軍医の診断で丙種の印を押してくれて不合格者になって東宝へ帰って来れたのだった。
 帰って来れたハリーを喜んだ山中貞雄だったが、《その山中に招集令状が来たのは、奇しくも「人情紙風船」の封切りの日、八月二十五日であった。
 《一年後の九月十七日、開封付近の野戦病院で山中は三十年の生涯を閉じた。かけがえのない監督をハリーは失なった。ハリーだけではなく、日本の映画界全体が、その未来の一部を失なったのであった。*2

『七人の侍』と現代――黒澤明 再考 (岩波新書)

『七人の侍』と現代――黒澤明 再考 (岩波新書)

聖林(ハリウツド)からヒロシマへ―映画カメラマン・ハリー三村の人生

聖林(ハリウツド)からヒロシマへ―映画カメラマン・ハリー三村の人生

*1:注記、聖林(ハリウッド)。『大辞泉』よると、「聖林」とも書くのは、holly(ヒイラギモチの木の意)をholy(聖)と誤り解したもの。

*2:注記、「三十年の生涯」は数え年か。