『子規、最後の八年』

 来月(6月)の新刊で、坪内祐三著『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り 漱石・外骨・熊楠・露伴・子規・紅葉・緑雨とその時代』が新潮文庫で文庫化されるようだ。
 それはさて置き、慶応三年生まれの旋毛曲りの一人、正岡子規をめぐる本を手に取った。
 新刊で、関川夏央著『子規、最後の八年』(講談社)は、明治二十八年から明治三十五年までの正岡子規のまわりに集(つど)った人々、その人物像を描き、子規三十五年のうち、晩年の八年の仕事と日常をたどる。
 濃密な人物像の記述が読ませる。「倫敦(ロンドン)消息」で漱石を、「序章 ベースボールの歌」で、ベースボール(野球)と俳句というものの類似性を述べている。
 なるほどなぁ。

 一部引用してみる。

 《明治十九年八月には長崎事件が起っている。》112ページ←「蛮力」の世界より。
 *1 
 《子規が東京を出発、出航地となる広島へ向かったのは明治二十八年三月三日であった。》29ページ

 《広島に子規はひと月あまり滞留した。軍の従軍許可が容易にはくだらなかったからである。
  三月十五日には三年ぶりの松山に帰省して父の墓に詣で、寺の内を鉄道線路が通っていることに驚いた。三月十六日、松山の友人たちが三番町の料亭で送別の宴を張ってくれた。小万という芸妓も呼ばれて座に連なった。
 広島に戻ると休戦の噂しきりであった。三月十九日には清国講和使節李鴻章が馬関に到着し、三月三十日には休戦となってしまった。子規は時機を失したのである。しかしいまだ講和は成立していない。四月十日に海城丸に乗船せよとの命を受けたのは四月七日であった。》30ページ

 《四月七日は、夏目漱石愛媛県尋常中学校教員として赴任するため、新橋駅から乗車した日である。
(中略)
 それにしても、すでに高等師範の講師をつとめていた漱石が中学校に職を得るとは変則である。学生であった時分、漱石は街頭の占い師に、「あなたは、西へ西へと行く運命を持っている」といわれた。それにしたがったわけでもあるまいが、松山行、熊本行、そしてさらにはるかな西にあるロンドン行は、たしかに漱石の運命をかえた。漱石は西に向かうたびに、小説家へと近づいて行くのである。》30〜31ページ 
 
 目次は、以下のようになっている。
 
 
 序章 ベースボールの歌
 明治二十八年
  その一 発病
  その二 漱石と虚子
 明治二十九年
  「一葉、何者ぞ」
 明治三十年
  「蛮力」の世界
 明治三十一年
  その一 「歌よみに与ふる書
  その二 東京版「ホトトギス
 明治三十二年
  美しい五月こそ厄月
 明治三十三年
  その一 左千夫と節(たかし)
  その二 来客はたのしいが、うるさい
 明治三十四年
  その一 倫敦(ロンドン)消息
  その二 藤の花ぶさ
  その三 律という女
 明治三十五年
  その一 最後の春
  その二 子規、最後の「恋」
 終章 「子規山脈」のその後
 あとがき
 参考文献一覧

子規、最後の八年

子規、最後の八年

*1:長崎事件は日清戦争の前哨戦。