安部公房伝3

 3月11日、この日の午後、大型電器店に寄った時にテレビ売り場で東北の地震を知った。
 その朝だったが、朝日新聞中原佑介氏の訃報記事を目にしたのだった。
安部公房伝
 安部ねり著『安部公房伝』(新潮社)に、著者が交流のあった25名にインタビューしている。
 このなかに、中原佑介氏へのインタビューがある。
 それによると、中原氏は、元「現在の会」、「記録芸術の会」会員で、
 

 僕は一九五六年の四月に東京にきたんです。ドクターコースの一年で中途退学して。それまで大学院の湯川研究室で素粒子論をやっていたんです。理論物理をね。まだ京都にいた頃に、『美術批評』に安部さんの戯曲の評論を書いたことがあります。それを読んでいたんだと思うんですけど、七月か八月ごろ電話があって、「現在の会」っていうのをやっているんだけど、君、入らないか。毎月一回会合を開いているから、まあ興味があればっていうんで、それで、どんなものかと顔を出したんですよ。新宿の安い飲み屋の二階の座敷で。行ったら、真鍋呉夫、柾木恭介、それから花田清輝さん、野間宏さんがいて佐々木基一さんはいたかな。関根弘さんもいた。美術関係の人はあまりいなくて、針生一郎さんが途中から参加したかな。ジャンルを超えてっていうようなことだし、結構話が面白くって。それから僕はかなりまじめに会合には出ていました。  256ページ

 一九五六年十一月号の「美術批評」の安部さんの「講演会」って形の展覧会批評を、中原さんは安部さんから頼まれて代筆で、「あれは、文章はまあ僕が書いて。」と語っている。

 

「現在の会」に入って半年ぐらいして、安部さんから「君ねえ、美術評論なんかやめて文芸評論やれよ、君ならできるから、是非って言うんだけど、でも、はいやりますっていう問題でもないから・・・。  258〜259ページ

 それから、十年以上経って、一九六八年に対談の司会をして会ったとき、中原氏は安部さんから当時、安部さんの小説をまともに取り上げて論じる評論っていうのは、あんまり出なかったので、ずいぶん愚痴を言われたそうだ。
 そのことを回想して、「彼としてはそれは君のやることだっていう気持ちがあったかなあって。ついに、意に沿わず文芸評論家にはなりませんでした。」

 中原佑介氏には、一度ちょっとだけですが、言葉をかわしたことがあった。
 もし、その前にこの『安部公房伝』でのインタビューを読んで知っていたら聞いてみたかったことがありますね。
 湯川研究室で素粒子論をやっていたということでいえば、片山泰久さんのことを聞けたらという気がします。