冬のモンゴル5

 昭和十九年十二月十七日、最後の野営地で、就寝中に寝袋の上にかけていた外套が、燃え残りの炉に落ちてしまい、直径十センチほどに円く焼け抜けてしまう。
 Tさんという方から夫が拝借した「当節では絶対に手に入らない」外套を焦がしてしまうエピソード。
 《「最後の晩になって・・・・・・」とくやしいし、寝心地の悪さと一緒になって、「もうどうにでもなれ」と捨てばち気分になり、手を動かす気もしない。》

 十二月十八日、十時間も坐りきりでやっと目的地の西ウジムチンへ辿(たど)り着き、一行は駱駝車での旅を終えます。
 西ウジムチン王府にて、磯野富士子さんらは十二月から昭和二十年三月二十八日まで、民族学的調査を行うことになります。

 三月二十五日に、夫が簡易点呼の令状で呼ばれる。
 四月十八日に張家口で行われる簡易点呼の令状である。
 《二十八日頃に林西(リンシー)から貝子廟への便があるから、それで帰るようにとのこと。》
 《全く予期しなかったことではないが、点呼は例年ならば夏頃に行われるのを、超非常時とあって今年は早くなったものらしい。せっかく牛のお乳が出るようになったのに。せっかく・・・・・・とくり返せばきりはないけれど、何といってもこればかりは、即刻荷物をまとめ、最も早い便で発つより仕方ないのだ。私はよっぽど夫が点呼を済ませて帰って来るまでここで待っていようかと思ったが、それまでの間に本物の召集が来たら悔んでも始まらないので、やはり一緒に行くことにする。》  216ページ
 三月二十八日、「貝子廟から張家口への道路は雪が深く、その間の交通も不定であるから、磯野氏はこの車で林西に行き、赤峰経由で張家口へ出るように」という指示でルートを替えて、荷物をトラックに積んで西ウジムチンを出発することになります。
 林西で一週間ばかり足をとめられて、やっと四月三日にバスがでることになり、赤峰へ。四月六日、汽車で錦州を経由し、北京へは四月八日の午後に着きます。
 北京でアントワーヌ・モスタールト神父をお訪ねする。
 《夫は点呼のためにすぐに張家口へ向い、私はしばらく北京で休養してから、五月の初めに張家口に出かけた。点呼がすんだらすぐに西ウジムチンへ帰るつもりだったが、いろいろの事情で出発できないでいる間に、ベルリンは陥ち、沖縄もあぶなくなって来た。奥地に入っている間に召集がくれば、夫は馬に乗り通してでもかけつけなければならない。その時に私が奥に一人で残されるのも困るし、また、いざとなった場合に私がいることは足手まといになるばかりなので、最後の最後まで迷ったあげくに、私は北京に留まることになった。》  『冬のモンゴル』234〜235ページ