『千駄木の漱石』を読む2

 森まゆみ著『千駄木漱石』は、夏目漱石の手紙を引用しながら、また妻鏡子の『漱石の思い出』で語ったこと、半藤末利子『夏目家の糠みそ』『漱石長襦袢』などを参照しながら、漱石のお見合い、妻鏡子の実家中根家の事など述べてゆく。二人のお見合い写真がある。29ページ。
 《だが漱石の留学時代には中根の父はすでに退官し、相場に手を出して家産を傾けつつあった。》
 明治三十六年六月十四日付の菅寅雄宛ての手紙に、「高等学校ハスキダ大学ハやメル積ダ」と漱石は書いている。
 森まゆみさんは、わが身に引き寄せて、
 

遠くにいる親友に日頃の憂さを晴らしている感もあるが、これこそ漱石の本音ではなかったか。私事で恐縮だが、わが母方の家は江戸の初めから日本橋で商売をして鴻池などと取引があった。大正の博覧会までは羽振りがよかったが、その後急速に落ちぶれた。その一族の口癖は「偉い人のお髭の塵を払っている閑があったら、のんきに昼寝がしたい」というのである。子供の頃から何度も聞かされてほとんど自分の哲学になってしまった。江戸生まれの者は土地になじみ、居場所を作る必要がない。
 森鷗外のように島根の片隅、津和野からでてきた人間は立身出世にまっしぐらに駆け続けなければ、居場所さえ持てなかった。明治二十五年、三十歳で団子坂上、本郷駒込千駄木町二一番地に二百坪の家を買って、庭を調え、六十歳で逝った鷗外と比べ、漱石の人生はなんと場当たりなのだろう。同窓生のホモソーシャルな友情に多々、助けられたとはいえ。
 漱石は最晩年まで家を持たず、借家を転々とした。「人間ハ食ッテ居レバソレデヨロシイノサ」。名を挙げることも金持ちになることもそれほど興味がなかった。懐手して世の中を小さく暮したい、それが漱石の人生哲学であった。  35ページ 「高等学校ハスキダ大学ハやメル積ダ」より。

千駄木の漱石

千駄木の漱石