『千駄木の漱石』を読む4

 森まゆみ著『千駄木漱石』では、「お墓参りがしたいーー『趣味の遺伝』」で、漱石の『趣味の遺伝』を研究的に読んでいる。
 主人公は日露戦争の凱旋行事が、東京駅がまだ出来ていない頃の新橋で行われるのを見に行く。
 

白山、西片、駒込、原町、久堅、本郷郵便局など私の親しんだ場所が出てくるのも楽しい。評価されない作品だが漱石日露戦争をどうとらえていたかも分かる、漱石千駄木に住んでいたからこそ、成り立った作品ということができよう。  206ページ

 明治三十九年の年初に漱石が出した手紙に、
 

「先達て赤ん坊が生まれました。僕は是で四人の女子を有するの栄を持つと云う騒ぎだが 片付ける時の始末を想像するとゾッとするですよ」(明治三十九年一月六日付、加計正文宛)。「僕のうちでは又去年の暮に赤ん坊が生れた。また女だ。僕の家は女子専門である。四人の女子が次へ次へと嫁入る事を考えるとゾーッとするね。貯蓄をせんといかん」(明治三十九年一月十四日付、菅寅雄宛)。  
「お墓参りがしたいーー『趣味の遺伝』」  201ページ

 漱石は明治三十九年暮れの二十七日、千駄木町五七番地から、引っ越して行ったのは、《西片町一〇番地ろノ七号、樋口一葉が上り下りした丸山福山坂の崖の上であった。》  238ページ

  あとがきに、森まゆみさんは、
 

 千駄木の地で漱石は、東京帝国大学や第一高等学校で教えるかたわら、『吾輩は猫である』『倫敦塔』『坊ちゃん』『草枕』『二百十日』などを書いた。弟子たちと行き来し、散歩し、ときに奢ってもらった。(昔はお世話になるほうが師をご馳走したものらしい)。書くことが楽しく、ほめてもらうのがうれしく、生活費はいつもたらず、教師はやめたくてしかたがなかった。
 その鬱屈が嵩ずると、「学校へ行くと高等学校の生徒のアタマを一つ宛ポカポカなぐってやりたくなる事がある。千駄木のワイワイ共に大きな石をつけて太田の池へ沈める工夫なぞを考える」(明治三十九年十一月十八日付、加計正文宛)。
 アブナイ、アブナイ、漱石先生。どうにかこらえて、いっぽう京都帝国大学教授や読売新聞入社の勧誘も断った。「江湖の処士」として生きる所存だったのである。  240ページ

 大正五年十二月九日、漱石は数え五十歳で死去。
 
 参照:夏目漱石の直筆の葉書のことhttp://d.hatena.ne.jp/kurisu2/20071021

千駄木の漱石

千駄木の漱石