日本映画の昭和史

 5日は二十四節気のひとつ小寒であった。厳しい冷え込みがつづく。

 6日夜、NHKラジオで文化講演会を放送していた。
 篠田正浩さんの「日本映画の昭和史」と題した講演会である。
 年末に、篠田正浩監督の映画『心中天網島』(1969年、表現社、ATG、103分、白黒)を「日本映画スター・ベスト30」特集の一本でちょうど観たばかりだ。
 
 番組HPによると、
 講演:篠田正浩(映画監督)
 日本映画が最も輝いていたと言われる昭和20〜30年代。その「戦後黄金期」に活躍した黒澤明小津安二郎川島雄三今村昌平木下恵介今井正溝口健二成瀬巳喜男など、今も根強い人気を誇る映画監督たちの偉才と作品を紹介しながら、日本映画が歩んで来た道程を振り返る。
 
 阿久悠さんは小学校三年で敗戦だった、篠田さんは中学三年で敗戦だった。
 映画「瀬戸内少年野球団」を原作者の阿久悠さんから電話がかかって来て、映画化してくださいという依頼電話の話と藤子不二雄Aさんから「少年時代」を映画化してくださいという依頼電話の話が興味深く面白かった。

 篠田さんは日本の敗戦の受け止め方が、阿久悠さんと年齢が六歳違っているだけで、こうも自分の悲観的な受取り方と違っている阿久悠さんの楽観的な受け取りかたに驚いた。
 瀬戸内という言葉に、《わたしは、先ほども紹介しましたが、岐阜の出身で、海のない県で瀬戸内という言葉は阿久悠さんの言葉で初めて知りまして・・・。》
 阿久悠さんの「瀬戸内少年野球団」は戦後はパラダイスの始まりだ。これはすごい時代が来たぜ。
 僕は、戦後は地獄だと。中学三年生の私は深刻に考えたんですね。
 僕らは各務ヶ原の陸軍の飛行隊の整備に学童動員されていたんですね。
 だからヌーヴェルヴァーグと呼ばれるもの、美しい日本も描きたいけれど、この悲劇的なアメリカに占領されつづける日本はどうやって独立するのか、すくなくとも言語としての日本語、新しい日本語によって新しい日本の映画をつくるというのが私の戦後の命題だった。
 
 最初は、僕には戦後はパラダイスだと思えないからお断りしますと、言いましたら、阿久さんが、「監督、あなたの悲劇的な日本と私の明るい日本と二つを共存することはできませんでしょうか。」と言われました時にちょっと眼からうろこが落ちましたね。

 歴史の見方というのは単眼ではだめで複眼でなければと感じ入ったそうだ。

 その「瀬戸内少年野球団」をつくってから、映画監督として、昭和という時代を意識的に作っていこうと思いましたね。
 映画界から映画の仕事がやって来ないのですね。
 仕事の依頼が、歌謡曲の音楽界と漫画の漫画界からやって来た。
 今度は漫画家の藤子不二雄Aさんから漫画を映画化してほしいと電話がかかって来た。
 「少年時代」は、小説家の柏原兵三の「長い道」が原作で、それを漫画化した藤子不二雄Aさんからの依頼であった。
 小説家の柏原兵三の「長い道」、疎開学童で痛めつけられた思い出が描かれている。
 だが、田舎の学童にとって、都会からやって来た学童との違いが、地方と都会との文化的な格差があったのだと気づいた。被害者は田舎の学童にあったのではないかと・・・。
 「瀬戸内少年野球団」と「少年時代」のあと、戦前をどういう仕方で映画にするか。
 少年時代にあったゾルゲ事件を映画にする経緯が語られた。
 映画「スパイ・ゾルゲ」の尾崎秀実(ほつみ)が、篠田さんと同じ岐阜の出身であるそうだ。
 ゾルゲは上海で尾崎秀実と知り合う。
 といった戦前の昭和史のゾルゲ事件の話が展開された。