池内紀著『恩地孝四郎 一つの伝記』

 
 18日、二十四節気のひとつ雨水である。
 午後から雨上がり曇り空。最低気温4℃、最高気温9℃だった。
 氷や雪が融(と)け、水ぬるみ、野や山で草木の芽が出始めるころである。
 公園の梅の木のつぼみが、ふくらみ始めた。
  
 
 最近読んだ本で、池内紀著『恩地孝四郎 一つの伝記』(幻戯書房)に、中村正常の言うところの新居格(にいかく)が、恩地孝四郎が昭和二十四年に博報堂主宰の装幀相談所の副所長、ついで所長に迎えられたことに関わっているという一文があった。
 中村知会著『中村さんちのチエコ抄』で、中村正常は、自分の文学志向、文学活動を後年、「芸術至上主義文芸」のインタビューで次のように答えているわけです。
 

「自分の書くものを、〈ナンセンス文学〉と名づけたのは、新居格(にいかく)と大宅壮一でね、私自身は、〈弱者の文学〉と言うべきかもしれない、と思っていた。ああいう時代の中で生きる〈善人〉とでもいうか、そんな人間像なんですよね。主義主張を声高に、意志を貫くほどではなく、なんとなくああいうふうになってしまったわけだから、時局が変わると、すぐに押しつぶされて、終わりになってしまった。ちっとも反抗する気なんかないんですからね」

 池内紀著『恩地孝四郎 一つの伝記』(幻戯書房)で、新居格(にいいたる)について述べられているその箇所を引用すると、

「木版を彫らぬ版画」の最初の出品につづく翌昭和二十四年(一九四九)一月のことだが、詩人の北園克衛新居格(にいいたる)らの協力により博報堂主宰の装幀相談所が設立され、恩地孝四郎はまず副所長、ついで所長に迎えられた。三ヵ月ののち、装幀相談所は東京・日本橋三越で第一回装幀展を開催した。美術館が優れた絵を掲げるようにして優れた装幀本を陳列した。美的作品として書物の装幀が、初めて世に認知された。「夜なべ仕事」「小遣い稼ぎ」などと陰口をたたかれながら、恩地孝四郎は機会があるたびに「装本図案家としての生業」を口にし、自分の半身にあるブックデザイナーを誇らかに語った。誇るに足る仕事と考えていたからである。  275ページ

 この本は、著者がPR誌「ちくま」に一九九六年十月号から一九九八年九月号に連載された「恩地孝四郎のこと」を加筆・訂正し、大幅に書き下ろしを加えて、見出し変更のうえ再構成したもので、幻戯書房創立十年の記念に出すと幻戯書房辺見じゅんさんとの約束が励みになって刊行されたものという。
 
 あとがきのエピソードに、池内紀さんが恩地孝四郎の評伝を書いてみたいと思いはじめていた矢先に、目黒で用があり、人と会うまでの時間つぶしに目黒駅近くをうろついていた。さびれた寺の墓石に「恩地家」の文字が目にとまって横手を見るとなんと恩地孝四郎と命日が刻まれていたというのがあります。
 恩地孝四郎の墓との不思議な出会いです。
 《迷っているころには、単なる偶然が天の声を聞いたように思えるものだ。》
 巻末には池内紀編の年譜および参考文献、他に主に美術・文芸の人名索引があります。
 参照:HTTP://genkishobo.exblog.jp/15731279/