近藤富枝著『大本営発表のマイク』のこと2

 新刊の近藤富枝著『大本営発表のマイク』を読む。
 近藤富枝さんの九歳から二十三歳までの自伝的な回顧録です。
 「一章 昭和ノスタルジー」は、日本橋の昭和六年の初午(はつうま)の思い出から始まります。
 

 さて初午とは二月最初に行われる稲荷祭のことで、戦前の東京下町の商家では屋敷神として江戸時代から引き続きお稲荷さんを祭る家が多かった。(中略)
 昼間は町内の子供が集まって、太鼓を叩いたり、菓子をもらったり、ポパイやチャップリンの活動写真を見せてもらう。富山家ではその他に芸人をよんで手品を見せるのが評判であった。(中略)
 初午の富山家の客はおよそ百人くらい、すべてが淀みなく進行する舞台面を眺めるようで面白い。
 その夜、田端へと叔父と帰らねばならないのだが、帰りたくない、帰りたくないと、私はノロノロ歩く。何が私をこんなにまでこの町に執着させるのか。むろん日本橋は私の生まれた土地であり、母なかの実家をはじめ親戚のほとんどが神田、日本橋に散らばっているからもある。でもそれだけではなかった。大げさに言うと、江戸の昔から長い月日のうちに洗われ磨かれた生活のなかでのとりなし、いわば文化の力が私をとらえて離さないのであった。(中略)
 後年の戦争時代になって初午の宵のことを時になつかしく回想されたのは、二度と私の前に帰ってこない日本であったからであろう。  9〜12ページ

 生まれた日本橋矢ノ倉町、隅田川のほとりの町から田端へ移ったのが昭和四年六月、滝野川第一小学校に転校した。

 田端は私が『田端文士村』を書いて知られるようになるが、昭和四年に移った時は文士村の王様であった芥川龍之介は二年前に自殺し、わが家の一軒おいた隣りに住んでいた室生犀星が馬込に移り、従って彼の弟子であった「驢馬」(ろば)の同人たち中野重治窪川鶴次郎、堀辰雄の姿が消え、いささか文士村の匂いは薄くなっていた。しかし画家や工芸作家は文展、二科展を問わず著名な作家がそっくり在住であった。  21ページ

 このころ、映画も見ている。

 田端の保護者達は私の映画見物を渋ったが、日曜の朝、五銭で一本だけ子供に見せるので、この時は大威張りで見に行く。どうしても見たいものは私に甘い神田の祖母か伯母にせがむ。日本橋に行けば父も連れてってくれる。
 何の映画だったろうか、これもストライキ映画で資産家の息子の鈴木伝明(でんめい)と無産者階級の及川道子が結婚式をすませ車に乗っている。妻となった及川は高島田姿で、なぜか口笛を吹いている。そして新郎の伝明に、
「愛の復讐はピストルでは駄目です」
 と言う。たいそう感心してこんなせりふの言える大人に早くなりたいと思った。もっとも無声映画なので声は弁士なのだ。 
 モガやモボが銀座を闊歩したのもこの時代で、そんな大学生が警察行になる姿もあった。  27〜28ページ


 鈴木伝明と及川道子の共演した映画とは何の映画だったのか。
 調べてみると、島津保次郎監督『野に叫ぶもの 青春篇』(1931年、7月15日公開)と『野に叫ぶもの 争闘篇』(1931年、7月23日公開)と二本あります。原作は佐藤紅緑
 昭和六年です。

 女優及川道子については、虫明亜呂無著『女の足指と電話機』(清流出版)に書かれていましたが、近藤さんは「愛の復讐はピストルでは駄目です」という(弁士による)及川道子のせりふが印象的だったようです。*1

田端文士村 (中公文庫)

田端文士村 (中公文庫)

 
女の足指と電話機―回想の女優たち

女の足指と電話機―回想の女優たち

*1:注記:鈴木伝明の伝は本文では旧字の伝で表記している。