内濠に小鴨のたまる日向かな

 
 天気曇り、最高気温9℃、最低気温5℃。
 渡り鳥のヒドリガモが川岸に群れていた。嘴(くちばし)を水面下へ入れたり出したりしながら動き回っていた。ぴゅーぴゅーという鳴き声は聞こえない。

カモ科の鳥。全長四八センチくらい。雄は頭部が赤茶色で額が黄白色、胸がぶどう色、背と側面が灰色。雌は全体に褐色。ユーラシア北部で繁殖。日本では冬鳥で、港湾・湖沼でみられ、雄はピューと笛のような声で鳴く。あかがしら。  『大辞泉

 明治二十八年の正岡子規の俳句に、「内濠に小鴨のたまる日向かな」。
 もう一句、「鴨啼(な)くや上野は闇に横たはる」。
 明治二十七年の句に、「夜更けたり何にさわだつ鴨の声」。

 新刊で関川夏央著『夏目さんちの黒いネコ』(小学館)を手にしている。
 本の帯に、
未来に期待しない。
それでいて昔を「回想」することもできない。
――それじゃネコとおなじじゃないか
ネコ化するひとが、ネコ化にあらがう人に贈る
「現在形」物語コラム45本。

 「あとがき」より一部引用してみる。 

人は「期待」と「回想」で生きるという。
 (中略)
 人間も、年齢を重ねると「期待」の次元から気づかぬうちに遠ざかっている。「期待」すること「考える」ことが面倒なのだ。
 すると理屈の上では「回想」の部分がおのずと増すことになるが、いまさら反省しても、という思いが拭えないし、郷愁も手にとってよくよく眺めれば意外に頼りなく、はかないものだと知る。そうして「回想」もまた彼方へ去る。
 要するに、年をとるとネコに近づくわけだ。
 惰眠のうちに、過ぎ去る時間が、全然苦ではならなくなる。ときに、ひどく懐かしい夢を見ないでもないが、目覚めればすっかりわすれているからおんなじだ。
 この本は、半分ネコになった人が書いた。これは気取った自己卑下ではない。実情である。読者も半分ネコの気持で読んでいただければと願う。    二〇一三年八月  関川夏央

 週刊ポスト(2012年8月3日号〜2013年7月19日号)に掲載された原稿に加筆・訂正を加えたものと巻末にある。