追悼・教養三日論者2 「新宿の王家の谷」

 種村季弘著『晴浴雨浴日記』に収録されているエッセイで、松山俊太郎氏が登場するエッセイが、「教養三日論者」の他にもうひとつありました。 
 「新宿の王家の谷」という「新宿TODAY」1986年11月号、未来文化社に初出のエッセイです。

 法会の帰りの一行は、その石堂淑朗をはじめ、長部日出雄、松山俊太郎、それにかくいう私の四人である。こうなったら新宿に出るしかない。というわけで半端な時間に新宿に出て、さて駅前広場まで来て、どこへいこうかとお上りさんみたいに立往生してしまったのである。 「Aにでも行ってみるか」
 石堂がいった。 「まさか、いくら何でもあんなところ、もう店がないだろ」 「それがね、やっているんだよ」  198〜199ページ

 このエッセイは、浦山桐郎監督の四十九日を済ませた後に、種村さんが四人で新宿へ繰り出し飲んだ地下酒場のAという店のたたずまいが、前高度成長期的な店、二十年前と寸分変わりなかった驚きを込めて、この店を次のように形容しています。

 エジプトの王家の谷を発見したときのハワード・カーターがこんな気持だったのではないかと思う。あるはずのないものがそっくりそのまま目の前に存在していたのである。地下酒場のなかは思いなしかひんやりと肌寒く、薄暗い室内は、照明といい、カウンターの造作といい、二十年前と寸分変わりがなかった。
 種村さんの回想が続きます。

 思えば六〇年代のある時期、私はほとんど毎晩、その地下酒場に通いづめだったのではなかったか。おもちゃの蛙のように目玉のくりくりした、同じ鋳型から鋳出したのではないかと思えるほど二人そっくりの、無類に気の好い母娘が経営していて、常連は若いジャーナリストが多く、まだ小説家志望時代の後藤明生梶山季之もいた。  199〜200ページ

晴浴雨浴日記

晴浴雨浴日記