「ホノルルまで」を読む2

 
 街路樹からドングリが落ちて地面に転がっている。
 ドングリはやや細くて長い感じのする形だ。コナラのようだ。

 

ブナ科の落葉高木。山野に自生する。葉は倒卵形で先がとがり、縁にぎざぎざがある。五月ごろ、新しい枝の下部に尾状の雄花、上部に雌花がつく。実は食べられる。材は器具・薪炭用。ほうそ。ははそ。ならしば。なら。  『大辞泉

 「飄として尊き秋日一つかな
 飯田蛇笏の俳句で、昭和五年(1930年)の句である。


 晴天にめぐまれて夕方から月食が始まっていた。午後7時15分ごろまだ部分食で、満月の上辺が三日月状になっていた。
 地球の影で月が刻々と変化してゆく。皆既月食の夜は静かだ。


 阿川弘之の「ホノルルまで」は、「出発まで」「ホノルルまで」「ハワイ素描」の三篇が収録されている。
 「出発まで」は、ロックフェラー財団のフェロウとしてアメリカへ渡るまでの経緯が語られる。
 最初、大磯の坂西志保女史から出発の何年か前のある日、ロックフェラー財団のファーズ博士が帝国ホテルに泊まっていらっしゃるんですが、行って会ってくれませんか。と、電話がかかってきたことがあった。
 忘れかけていた頃、突然、財団からの正式の手紙が舞いこんで行くことになった。

 《旅行には家内も連れて行くことになった。
 私より前の、大岡、福田、中村さんたちはみな単身の留学であったが、アメリカ社会で人と交わるのに、概して夫婦単位の方が好都合なこと、滞在中ホーム・シックにかかる率が少いようにという配慮、などから、私以後の人文科学のフェロウは、原則として夫婦留学ということになり、妻にも旅費と手当とが支給されることになった。  5ページ》*1 

 《ところで、出かけるについては、まだ小さな子供二人の始末が、頭の痛い問題であったが、これは幸い、私の郷里の兄夫婦が、一年間、預かってくれることになった。
 さて、こうしておいおい話が進み、具体的な渡航準備は、交通公社の海外旅行部が万事非常に親切にやってくれ、私は帝国ホテルで初めてファーズ博士に会ってから一年半後の、一九五五年十一月二十八日に、家内同伴で横浜を出帆することになったのである。  6ページ》

*1:大岡は、大岡昇平。福田は、福田恆存(つねあり)。中村は、中村光夫。他に石井桃子アメリカへロックフェラー財団のフェローとして渡っていた。