奇妙な文学史的事実

 23日は二十四節気のひとつ霜降であった。最高気温22℃、最低気温13℃。
 晴天で気持ちよい風でおだやかだ。
 25日、最高気温24℃。最低気温13℃。快晴で風がなく過ごしやすい。
 阿川弘之著『七十の手習い』を読む。
 随筆集で、『菊池寛全集』第二巻 1993年12月刊の解説として書かれた「菊池寛志賀直哉」という文が収録されている。
 冒頭に、
 《菊池寛志賀直哉は、どんな交友関係にあったか、此のあまり知られていない事実を、少し詳しく記して菊池寛全集本巻の「解説」に代えることとしたい。
 二人の関係を世間一般がよく知らないのは、当り前と言えば当り前で、両者生涯に、五遍か、六遍しか顔を合わせていない。》 223ページ

 

 菊池寛の小説『真珠夫人』について、
 《『真珠夫人』は大正九年の六月九日から「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」に連載が始まり、十二月下旬完結の予定で、そのあとへ直哉の長編が載る手筈になっていた。題を「時任謙作」とするつもりだったが、新聞向きではないと言われて、『暗夜行路』に改める。当時「東日」と「大毎」とでは、大阪の方が主導権を握っており、文芸欄の責任者は大阪毎日学芸部長の薄田泣菫であった。》 226〜227ページ

 《(前略)同年九月十日、「菊池氏の後のつもりで」書きついでいた原稿、最初の二十回分ほどを携えて我孫子から上京、これを東京側の担当記者畑耕一に手渡す。それが、大阪の薄田学芸部長のもとへ廻される。》  228ページ

 原稿を見て、『真珠夫人』の面白さと較べて、あまりにも地味な暗い小説であったので、これでは困るとなり、結局折り合いがつかず、掲載がご破算になり、翌大正十年正月、瀧井孝作が編集部員を勤める雑誌「改造」に、第一回分が掲載されたという。
 阿川さんは、『暗夜行路』の成立過程に、『真珠夫人』がある意味で深く関わっていたのではないかと思われる、と書いている。
 奇妙な文学史的事実が存在する、とも。