『日米交換船』余聞

白いツツジの花

 ラジオ深夜便のインタビュー「わたしの戦後60年」の録音テープを何度も聴いた。放送は昨年(2005年)の8月17日である。その時に、気になったので録音したテープである。ゲストは鶴見和子さんで、1942年(昭和17年)のニューヨークでの体験談話である。国務省から6月に電報が来たときの回想話に引き込まれた。

 帰りたくなかった。そいでね、どうしようどうしようと、すーごく悩んだらね、ニューヨークの日本総領事館からね、電報が来てますから来て下さいという電話がかかった。それで行ったのね。そうしたら父から電報が来ていたの。「帰るか、帰らないかは、あなたの選択にまかせます。」もういまでもおぼえている。

 帰国船をめぐって、ここで帰国すると学業が半ばになるということで、鶴見和子さんは悩む。挫折感を味わう。国務省から、

 国務省から6月に電報が来たの。「日本に帰るか、帰らないか、24時間以内に返電を打て」

 鶴見和子さんは、その返事に逡巡する。最初は、「帰る」と電報を打つ。しかし、迷ってすぐさま「帰らない」という電報を打ち直す。それでも、また迷って三度目の返電を「帰る」と打った時のことを回想されている。

 帰る、帰らない、帰ると、打ったのよ。あの時の決断は・・・。

 鶴見俊輔加藤典洋黒川創、『日米交換船』*1(新潮社)の余聞として書いてみた。