二十四節気のひとつ春分である。午後、お彼岸で墓参りに行く。
菜の花が道端に咲いていた。蕪村の句に、「なの花や昼一(ひと)しきり海の音」。
夜、NHKの「ラジオ名人寄席 お彼岸特別興行」で落語を聴く。演目と落語の解説は玉置宏であった。
桂吉朝の「天災」
笑福亭松鶴の「崇徳院」(六代目)
柳亭痴楽の「宿題」(四代目)
古今亭志ん生の「鮑のし」
「天災」を聴いて桂吉朝の噺に笑った。うーん。上手いなあ。「天災」の噺は桂ざこばが好みなのだが、今夜聴いた桂吉朝もいいね。吉朝の他の噺も聴きたくなった。
またまた、古今亭志ん生の「鮑のし」は聴き逃した。
「天災」の噺は、中国の古代思想家の荘子に、たしか同じような話があった。
「荘子」の説く認識論が、「天災」の説く認識論と近いのだ。とすれば、落語というのは聴いていて、知らず知らず、笑いながら日本語で「哲学」していることになるのか。うーむ。どうだろうか。