桜が咲く頃

ヒドリガモ

 夕方、渡り鳥のヒドリガモを見る。川岸に近い水面(みなも)をすいすい泳いでいた。人の気配を察して、ヒドリガモは遠ざかる。快晴の空を仰げば天頂に月が昇っている。月は半月で、西の空には金星がひときわ明るく輝いて、高度は三〇度を越えているかな。観測するにはよい時期だ。
 公園へ寄る。おやおや、やっと桜が咲きかけている。うれしいね。
 その後書店で『青春と読書』2007年4月号と『経Kei』2007年3月号をもらう。
 『青春と読書』で連載の茂木健一郎の「欲望する脳」が最終回だ。タイトルは「一つの生命哲学をこそ」である。
 おやっと思ったのは、茂木さんはよく言われる孔子論語が聖人がつかんだ人生訓であるという説に対して、人為を越えた老荘思想における「無為自然」こそが目指すべき境地だと主張していたが、この連載を終えるにあたって、孔子の「七十従心」は老荘思想に言う「無為自然」と本質的に同じことを指しているのではないかと直覚されてならない、という。
 うーん。このあたりの茂木さんの話はとても面白い。

 実際には、私たちの内なる欲望も、そしてさまざまな生物がその中で息づく自然も、人間がうっかり思いこむよりは遥かに高い知性に基づいている。
 かつての私に思い至らなかったのは、人間の欲望というものはその最高の知性の表れでもあり得るということだった。自然は、そもそもその内側に人間の脳が表出するのと少なくとも同程度の知性を宿しているという事実だった。自然がもしそれほど単純にできていたとしたら、地球の上でこれだけの長い時間「持続可能」なシステムとして存続することは不可能だったことだろう。「七十従心」は「無為自然」と同じである。
 この命題の中に、人間を、そして母なる自然をともすれば単純化しがちだった従来の機械論的な世界観を越え、私たちが住む宇宙というこの不可思議な場所の複雑なる豊饒をより深く理解するためのヒントが隠されている。「自らの欲望を肯定する」ということが、「利己的」というニュアンスを失って生命哲学的な深みを呈するに至った時、人類はその長い概念上の進化の階段をまた一つ登ったことになるのだろう。  35ページ