アンジェリカ・ヒューストンのこと

 先月、NHKラジオ深夜便の「読書で豊かに」という番組で荒川洋治さんが紹介していた、北村太郎の『光が射してくる』(港の人)を読みはじめる。
 詩篇、エッセイ、読書案内の三つの文が収められている。533ページもある厚い本である。
二十代後半から三十代後半までの北村太郎が、ジュニア向けに書いた読書案内(書評)が圧巻である。
 やわらかい言葉で語るように書かれている。
 さっそく、荒川さんが話されていた、「読書によって心が広くなるより、狭くなる人の方が多い」の箇所、258ページを開いて読み出した。
 これは、「読書の公理」のなかに書かれている一節だった。
 読書論としても読ませる文章だ。
 読書案内には、数多くの本が紹介されている。今では絶版の本もあり、北村太郎の紹介を読むと、こんなにも世界は広いのかと思わずにはいられない。
 手はじめに「詩集の出版は安易に流れすぎていないか」という文を興味深く読んだ。藤井貞和鈴木志郎康にふれている。
 もうひとつ、477ページのジェイムズ・ジョイスの『ダブリン人』(角川文庫)飯島淳秀・訳の読書案内を読む。

 「死せるもの」はぜんたいの五分の一の長さを占め、集中でいちばん長い作品です。これはじつにみごとな短編で、二十世紀の世界最高の短篇という人もあるくらいです。クリスマスの集い。集いを催すホステスは、独身の老嬢姉妹と、その姪。寒い夜。凍りつくダブリン市街の街灯。招待されてやってくる人々。そのなかの一人、老嬢の甥のゲイブリエルが、この短篇の主人公です。いまはダブリンの大学の教師をし、ロンドンの新聞に書評を送り、妻子と、無事安穏にくらしている男です。このゲイブリエルが妻といっしょに恒例のパーティにやってきますが、パーティの料理や酒の精細な描写、老嬢のさむざむとした生活とこころの深いえぐり方、そしてゲイブリエル夫妻の心理の奥のひだのこまかい描き方など、何度読んでも感嘆のつきない小説です。一篇のテーマは「死せるもの」のちからは、隠微ではあるが確かにつよく存在している、ということでしょう。つまり俗物、世間的なゲイブリエルには、「死せるもの」のちからの及んでいた妻を、全的に支配できなかった、という悲しみが、テーマなのです。人間の生ける欲望のみじめさを、これほどみごとに描いた作品は、まずないといってよいでしょう。(478ページ)

 ジェイムズ・ジョイスの小説を、ジョン・ヒューストン監督が映画化した『ザ・デッド』という映画があったけど、『ダブリン人』のなかの「死せるもの」の映画化であった。
 この映画もサロンシネマで公開されたときに観たのだったが、ゲイブリエルの妻グレタ役のアンジェリカ・ヒューストンの名演ぶりが思い出される。
 一昨日のウェス・アンダーソン監督の映画『ダージリン急行』で、尼僧で三兄弟の母親を演じていたのがアンジェリカ・ヒューストンだった。
 少し調べてみると、『ザ・デッド』が公開されて二十年になるのだった。ふーむ。
 アンジェリカ・ヒューストンが、元気な熟年の尼僧を演じられる年齢になったのを感慨深く思う映画でもあった。