ジャリリ監督の『ダンス・オブ・ダスト』

絨毯とコーラン

 アボルファズル・ジャリリ監督の『ダンス・オブ・ダスト』(1992−1998年、イラン、75分、カラー)を観る。映像文化ライブラリーで、観客は30人ほど。
 冒頭、「この映画には字幕を付けない」と監督の意向が「字幕」で表される。
 今にも嵐がやって来そうな空模様、部屋で一人の少年が横になっている。
 煉瓦の型に粘土を詰めて成型し、地面に並べて乾燥させ、大きな焼き釜に運んで積み上げて、重油を燃やし焼き上げる労働が展開される。
 少年は乾いた大地で井戸から水をくみ上げて家へ運ぶ。
 季節労働者の娘リムアと会うと眼と眼で心をかよわせる。
 来る日も来る日も、急ぐように粘土を煉瓦の型に詰めて煉瓦を造ってゆく。焼き上げて出来た煉瓦は、トラックで買いに来る業者に渡す。
 紙幣を手にした煉瓦職人に連れ立って少年も町へ出かけ、飲食店で歓談に打ち興じるのだった。職人たちは家族のためのお土産の品々を買って家に戻る。
 だが、煉瓦造りのための乾季が終わり、雨季になる。
 雨に濡れて乾かしていた煉瓦が形が崩れかかっている上で、少年がダンスを踊るシーンがある。印象的な場面だ。
 季節労働者の娘リムアとその家族は、季節労働を終えて帰って行く。
 別れの季節がやって来たのだった。
 笑い声、悲しみの声、叫び声などはあるのだが、台詞(せりふ)はつぶやきのような言葉を除いて一切ないのだった。
 ただ、台詞の替わりに少年は大地を疾走する。ただただ走る。山の頂上へ向かって駆け上がる。少女も走る。ひたすら走る。大人たちも走る。走る場面の映像は、観る者に圧倒的な迫力を持って迫ってくる。走ることが喜怒哀楽を表しているかのようだ。
 映像のもつ詩的な力強さを実感させる作品である。
 見終わって、外に出てみると南の空に高く半月が輝いていた。美しい上弦の月である。
 今日は夏も近づく八十八夜であった。