「フォスコ・マライーニの最後の弁明」と映画『神曲』

神曲

 『図書』11月号で、谷泰氏の「フォスコ・マライーニの最後の弁明」に驚いた。
 谷泰氏がフォスコ・マライーニさんの最後の弁明文を紹介している。
 2004年に、谷泰氏は、《わたしはこの死の知らせを聞き、フィレンツェへ赴き、旧市庁舎パラッツォ・ヴェッキオでかれの最後の弁明文を受け取ることになった。(中略)こういう西欧の一知識人のメッセージを広く知ってもらいたいという思いから、やや長いが、ここにその大略を載録させていただこう。》
 かれ(フォスコ・マライーニ)は自己の属する文明のあり方を問いただす。

 《・・・日本を経験したもののみがはじめて指摘できる、西欧的なるものへの自己省察をおこなっている。その一例をしめせば、「もし神が不在なら、すべてが許される」というドストエフスキーの言葉を引用し、ヨーロッパでは、倫理的規制が絶対的なる神の監視下にあるため、その不在のもとでは恣意的放縦に走る可能性がある。ところが日本ではかかる神は存在しないにもかかわらず、日本人は恣意的放縦に走らず、礼儀ただしく、人倫の道をわきまえているのはなぜか。かれはこういう問いのもとで、自己の属する文明のあり方を問いただすのである。  12〜13ページ

 
 
 「ポルトガル映画祭2010」で上映されたマノエル・ド・オリヴェイラ監督の『神曲』(1991年、142分、カラー)が、ちょうどその自己の属する文明のあり方の根底に流れている宗教や思想といったものを象徴的に描いていた。
 「ポルトガル映画祭2010」のパンフレットから、『神曲』について引用すると、
 

「精神を病める人々の家」の表札が掲げられた邸宅で、アダムとイヴ、キリスト、ラスコーリニコフニーチェのアンチ・キリストら歴史的文学作品の登場人物たちが、信仰と理性と愛についての議論を闘わせる。西洋古典の深奥に分け入りながらも「まったく未知なものとして、絶対的な驚き」とともに再び映像として蘇らせるオリヴェイラ芸術の真骨頂。

 冒頭、「精神を病める人々の家」の表札が掲げられた邸宅の庭で、アダムとイヴの二人が全裸で禁断の林檎の実を持って立っている。それを見守る邸宅の住人たちの穏やかなまなざし。
 キリストが登場し、ニーチェが登場し白熱のアンチ・キリストの議論が展開される。
 ニーチェの後は、ドストエフスキーの『罪と罰』のラスコーリニコフが登場する。殺人を犯す場面が身震いするほどのシーンで、映画はいつしか、『罪と罰』の作品世界になっていて、ソーニャも登場し、ラスコーリニコフが自分の犯した罪をソーニャに告げる場面までの白熱の議論が、そしてソーニャの天真爛漫さが眩しい。印象的なソーニャとラスコーリニコフのシーンである。