『サタデイ・ナイト・ムービー』から

 週刊読売に連載の「都筑道夫のときどきキネマ」(昭和52年7月2日号〜昭和54年3月18日号)が、都筑道夫著『サタデイ・ナイト・ムービー』(集英社文庫)に収録されている。1977年から1979年に都筑さんの見た映画評である。
 
 溝口健二監督の映画「元禄忠臣蔵 前篇」(1941年、興亜映画、松竹京都、112分、白黒)と映画「元禄忠臣蔵 後篇」(1942年、松竹京都、106分、白黒)を文京区本駒込三百人劇場で見たときの感想を書いている。
 この映画を最初に見たのが、都筑さんが小学校六年生で、リアルタイムで見ているのだ。


 《文京区本駒込三百人劇場で、溝口健二の「元禄忠臣蔵」を見る。前篇の封切が昭和十六年の十二月一日、後篇が昭和十七年二月十一日、私は小学校六年生だった。それが、いっぱしの映画青年を気どって、「時代映画」に前篇、「映画評論」に後篇が発表された原健一郎、依田義賢のシナリオを読んでから、近所の封切館、矢来下の羽衣館に見にいったものだ。シナリオでは前篇のクライマックスだった「お浜御殿」の場が、映画では後篇の頭にきていて、討入の場面がなくなっていることなぞを、おぼえている。
 前篇後篇あわせ、三時間三十分を、いっぺんに見るのだから、くたびれる覚悟で出かけたが、ぜんぜん疲れずに、充実した感じで見おわった。それはおもに、セットの見事さ、俳優たちのせりふまわしの確かさによるだろう。》  221〜222ページ
 (中略)
 《入りはいいほうで、大半は若いが、そのひとたちはこの舞台劇に近い映画を、どう見たのだろう。真山青果ではなく、溝口健二を見にきたのかもしれないが、その長い長いカットに耐えられた俳優たちに、私は関心があった。吉千代の役で、中村梅之助が出ている。十歳だったそうだが、いまはこの映画のときの父親、翫右衛門の年齢を超えているわけだ。いまの前進座の若手たちが、この長いカットに耐えられるとは、私には思えない。
 討入のない忠臣蔵に、当時は唖然としたひとが多くて、私もそのひとりだったが、いま見ると、なくてよかったのだろう。後篇のシナリオを批評して、「長唄のしまいに小唄がくっついた」と、伊丹万作がいっている。河原崎国太郎磯貝十郎左衛門と、高峰のおみのの挿話がウエイトをしめすぎているからだが、討入がなくなった上に、「お浜御殿」が頭にきたので、アンバランスが気にならない。
 日本映画は進歩したのか、退歩したのか、この映画を見て、判断してください。》*1  223ページ 


 この『サタデイ・ナイト・ムービー』は、昭和五十四年十一月、奇想天外社から刊行された。
 その後、集英社文庫になり、装丁と解説を和田誠が担当している。

 解説で和田さんが引用している、都筑道夫さんの「私の映画遍歴」から。
 「いまや映画は現在だけのもの、横の知識だけのものになって、よほどのマニアでないかぎり、縦の知識まで持とうとはしないらしい。それだけ、映画が権威をうしなった、ということなのだろう」

 

*1: 注記:前篇の封切時に太平洋戦争が始まり、後篇の封切時にシンガポールが陥落している。「元禄忠臣蔵」はこのような時期の映画であったのですね。 高峰=高峰三枝子