寒川鼠骨のこと

アブラゼミ

 松山巌の『手の孤独、手の力』(中央公論新社)で、「Ⅵ 友情の水脈」の章から「子規の水脈」と「ツキのない男の情」を読んだ。
 一読、ちょっと山田風太郎の「明治物」と呼ばれているジャンルの小説の魅力に近い感想を持った。
 正岡子規没後、子規全集を編纂(三回も)し、広く正岡子規の仕事を知らしめた寒川鼠骨(さむかわそこつ)や柴田宵曲(しばたしょうきょく)にふれた文である。寒川鼠骨は、本名は寒川陽光(あきみつ)。明治八年(一八七五年)十一月に四国の松山に生まれた。鼠骨(そこつ)は自分でつけた俳号である。
 幼なじみに、二歳年上に兄貴分ヘイさんこと河東秉五郎(へいごろう)がいた。二人は明治二十六年(一八九三年)九月、京都の三高に入学した。
 ヘイさんの親友の清さんこと高浜清が一年前に三高文科にいて、二人は清さんと同じ下宿に入る。
 三人の共通の先輩に一高から帝大文科に入って、中退して、今は日本新聞社に勤めているノボさんこと正岡升(のぼる)がいて、《ノボさんはそこの政論紙「日本」に俳句欄を新設し、自分の句を発表するばかりか、投句を選考している。その上、俳句論を連載しはじめた。》
 その鼠骨が三高退学後、京都日出新聞社、大阪朝日新聞社京都支局を経て、上京して正岡子規のいる「日本」へ入る。
 そこで田中正造が訴えていた渡良瀬川鉱毒問題に関連する筆禍事件に巻き込まれる。
 松山さんは、百年前に、ソコツという妙な名前の若者がいた、と書いた後、次のように結ぶ。

 世俗的な栄進には恵まれなかったが、田中正造にも、子規にも信頼された。ツキのない男だったけれど、正岡のノボさんと出会ったことが、生涯のツキだったと彼なら語るに違いない。彼は子規庵を守り、全集を三度も編集した。子規の友情に答えたのである。  393ページ

 鼠骨の墓は、東京亀有の見性寺にあるそうだ。