街路樹のナツメが赤く熟してきた。根元に点々と赤い実が落ちている。
土地の人から、このナツメの木は日露戦争の時に、大陸から持ち帰って民家に植えられていたもので、戦災にあい、後に街路樹として移植されたものという。
川を渡っていると、魚の群れが水面近くで泳いでいるのが見えた。
秋刀魚のように細長い姿の魚が三段跳びをしている。ぴよーん。ぴよーん、ぴよーん、と。
蕪村の句に、「初汐(はつしほ)に追(おは)れてのぼる小魚(こうを)哉」。
今夜は満月である。夜半前に木星が南中する。
山口昌男さんの『学問の春』を読み始めている。
「第二講 まなび あそび」に、テルアビブから来たユダヤ人の人類学者でベン・アモスという人が日本に来て、二年間、保育園の保父さんをやった体験話がちょっと面白い。
《子どもたちがどのように自分たちで勝手に遊びを作り出すかを観察した。それから言葉もね。子どもは汚い言葉を加工して使うのがうまい。》
この話のすこし前に、
要するに、子どもがチチンプイプイなんとかかんとか言っている言葉自体が、ナンセンス詩の起源だといえる。大人がそれをまねして、しまいにはダダイズムだとかシュールレアリズムのような一九二〇年代から三〇年代にかけての前衛的な詩とアートの運動になっていったところがある。大人のソフィスティケートされた芸術の起源が意外と子どもの遊びの歌の中にあるんですね。イギリスには『マザー・グース』のようないまから少しずつ読んでおいても損はしない言葉遊び的な強い伝承童謡のアンソロジーがいくつかあります。 「ナンセンスと子どもの遊び」 49ページ