『書斎の死体』を読む3

 ロンドン近郊のセント・メアリ・ミードという小さな村を訪れた田村隆一ミス・マープルの家での架空対談の場面である。*1

田村 失礼ですが、アガサ・クリスティ先生でいらっしゃいますか。ぼく、日本からやってきたタムラと申します。職業は詩人ということになっていますが、むろん、詩では、神のパンにありつけないので、先生の御作などを訳しているのです。セント・メアリ・ミードと、このコミュニティを産んだクリスティ先生に、一目、お目にかかれればと思ったものですから。
クリスティ まあ、日本からわざわざ。それにしても、先生とおっしゃらないでください。ただミセスと呼んでくだされば、けっこうですわ。あいにくと主人のマローワンは、考古学の研究で中近東へ出かけておりますが、さ、よろしかったら、どうぞ、その椅子へ。そう、ちょうどお茶の時間ですから、ご一緒いたしましょう。なんでしたら、自家製のシェリーもございますよ。どちらになさいます?
田村 では、遠慮なくお茶をいただきます。
クリスティ ご近所の退役大佐からいただいたセイロン茶がありますから、それにしましょう。インドの駐在武官を長年おつとめになった方でしてね。(ミセスは、銀のポットにセイロン茶を入れて、サクランボのジャムとクリームと、手焼きのパンをお盆にのせて、庭のテーブルに運んできた)
 ところで、ミスタ・タムラ、わたしの作品で、どんなものをお訳しになって?  18〜19ページ

 このあと、第二次大戦後、焦土と化した東京に復員してくると、これといった職もなかったので、神のパンを得るために、いろいろな英語の翻訳の下訳を戦争から帰ってきた仲間たちとしました、といった話がつづく。
 田村隆一が訳したアガサ・クリスティの作品については、

田村 たしか、そのときミセスの翻訳権をとったのは『白昼の悪魔』(一九四一)と『ゼロ時間へ』(一九四四)それから第二次大戦後の傑作といわれている『予告殺人』(一九五〇)でした。そのうち、『ゼロ時間へ』と『予告殺人』は、ぼくが訳したのです。それから、『三幕の殺人』(一九三五)、『シタフォードの秘密』(一九三一)も。おかげで、あなたが創造したクラドック警部、ジェーン・マープル、エルキュール・ポアロといった、おのおの個性のある名探偵を、ぼくはこの手で体験することができました。それからというものは、ミセスの想像的で、トリッキーな劇的世界に魅せられて、十数冊、訳させていただきました。むろん、神のパンを得るのも大きな動機でしたけど。
クリスティ 神のパンとおっしゃたので、思い出しました。どうでしょう。うちの自家製のシェリーは?
田村 ありがとうございます。では、よろこんで。  22ページ

*1:セント・メアリ・ミードは、クリスティが生み出した小説の中の村で、登場人物のミス・マープルが住む。